2012/07/27 by Tanada

【付涛】放射線の陰のもとで―福島1日紀行

2011年3月11日に発生し、マグニチュード9を記録した東日本大震災と大津波は、甚大な損害をもたらした。地震と大津波が引き起こした福島第一原子力発電所の爆発と放射性物質の漏洩は、周辺地域ないしは日本社会全体に深い傷を与えた。時が経つにつれ、地震や津波による直接的な被害は少しずつ薄らいでいるが、依然として福島は消えることのない放射線の暗い陰の下に長い間置き去りにされている。

原発事故発生から1年近く経った2012年1月13日から15日の間、筆者は日本のNGOであるピースボートと東アジア環境情報発伝所の招待を受け、その他の世界各地からの参加者とともに、13日は福島のコミュニティの視察を行い、14日と15日は横浜で「脱原発世界会議」に参加した。3日間という短い日程だったが、福島の人々が直面している様々な困難について理解し、日本国民の間で高まっている反核意識を目の当たりにすることができた。世界各地から来たNGO活動家は、自らの行動を通じて、原子力の放棄とその代わりとなる再生可能エネルギーの模索を世界各国に呼びかけた。

1月12日、筆者は「ブルー大連」の程淑玲氏とともに、東京から新幹線に乗った。福島市に到着したのは夜で、駅から徒歩1分のホテルにチェックインした。夜の空気は澄んで冷たく、地面にはまだ雪が残っていた。上を見ると、夜空に星がまたたいていた。道を行く人は少なく、時折車が通るだけで、特に変わった様子は感じられなかった。夕食の際に主催者が歓迎の挨拶の中で、福島の現状や、次の日には仮設住宅や放射線の影響を受けているコミュニティを訪問する予定であることについて触れたとき、初めて幾分雰囲気が厳かになった。

特に主催者が、次の日の最後に訪問する南相馬市は、地震、大津波と放射能の三重の打撃を受けた町で、バスで計画的避難区域を通過することを皆に告げたとき、緊張した心持ちになった。

「台湾グリーン市民行動連盟」の徐詩雅氏は、次のように率直に語ってくれた。「福島に来る前、今回の訪問の安全性について非常に心配でした。原発事故後の情況にはずっと注目していたので、情況の重大さをよく理解していたからです。大地震の後、政府による原発関連情報の発表はかなり遅れがちで、その上不明瞭でした。台湾グリーン市民行動連盟は、事故発生当時から福島の原子力に注目している現地の団体と連絡をとり、事故と放射能汚染の情況について台湾に情報を伝えてきました。情報伝達のスピードはメディアより速いほどでした。しかし心配は心配として、今回の視察は、福島を自分の目で見るまたとない機会で、仕事上の責任もあるので、『覚悟を決めて』来ました。」福島で過ごす最初の夜、世界各地から来た100名余りの来賓の中には、筆者と同様、落ち着かない心持ちのまま眠りについた、あるいはよく眠れなかった人もいただろう。

民間からの真相

次の日の朝8時半、一行はホテル近くの福島会議センター(「コラッセふくしま」、福島駅西口複合施設)に歩いて移動し、現地のNGOとコミュニティ団体についての説明を受けた。ホテルを出たところで、ある韓国のNGOの代表が、線量計を取り出して地面に置き放射線量を測った。周りの皆は、線量計を囲み表示された数字の写真を取るという情況になった。測定された数値は毎時1.011マイクロシーベルトで、通常安全とされる値の10倍だった。福島市は県庁所在地であり、福島第一原発からは北西約60キロメートルに位置する。私達は政府の定める立入り禁止区域外にいたが、それでも放射線量は非常に高く、長期的にここにいる住民への影響が垣間見られる。

会場は現地NGOの代表者や来客でいっぱいで、通路には各国からの報道カメラマンが立ち並んでいた。その中で、福島の各NGOの代表者が放射線の影響と地域社会の対応について紹介した。

原発事故からの避難によって、多くの福島県民は、家族と離れて暮らすことを余儀なくされている。原発事故によって避難せざるを得なかった周辺住民は8万5000人にものぼっている(Nuclear Monitor 730、2010年7月15日)。福島大学准教授で「災害復興研究所」を立ち上げた丹波史紀氏は、3万人を対象とする調査を実施したところ、回答者の81%が放射線の影響による避難のため家族がばらばらになってしまっていることが分かった。故郷から離れて暮らす人々は最短でも5年間は異郷の地で暮らさなければならず、いつ家に戻れるか見通しがつかず困惑している。

「政府は放射線による汚染は管理できているとしていますが、誰も信じていません。」と丹波氏は言った。政府は「住民の恐怖を解消し、不必要な心配を取り除くため」という原則のもとに、健康調査を実施し、「放射線影響は非常に限られたものである」という結論を出したが、NGOによる独自の民間調査の結果は、政府の結論に疑問を投げかけている。会場で配布された資料によれば、2011年9月9日、反原子力団体の「福島老朽原発を考える会(フクロウの会)」が発表したモニタリング報告書は、7月22日から26日に福島の児童15名を対象に尿検査を行ったところ、明らかに呼吸や飲食を通じた内部被ばくが起きている、としている。さらに報告書は、現地の児童に対し全面的な検査を行うとともに、予防措置として避難区域を拡大することを提案している。

またNGOの独自調査によれば、いまなお深刻な放射能汚染を受けている福島市渡利地区は、未だに計画的避難区域に指定されていない。2011年6月から10月まで、現地のNGOは放射線量の測定結果や土壌汚染のデータをもとに、何度も政府との交渉を試み、同区を計画的避難区域に指定するよう要請したが、拒否された。一部の住民は、放射能から遠ざかりたい気持ちはあっても仕事を失うことや家庭から離れることに不安を感じ、この地域に残っているのだ。

福島市民の丸森あや氏は、政府の記者会見に参加したことがある。政府は市民の懸念を解消しようと、汚染はすでにコントロールできている、と述べたが、丸森氏は政府の代表者に次のような質問をした。「政府はどのようにして福島の5カ所からの測定データを入手しているのですか。」それに対する答えは、丸森氏を驚かせた。「実は私達も測定データは持っていません。」

「政府は、測定データによる根拠も持っていない状態で政策決定を行なっているのです」と丸森氏は語った。「市民には、危険な区域から撤去するかどうかについて決定する権利があります。」丹波氏が集めたデータによれば、放射能への心配から、政府の指定した計画的避難区域以外の地域でも5万人が自発的に避難しており、その内1万人は福島にいる 。

安全な地区に移転できた子供達は、避難していない子供達に比べれば幸運だと言えるが、移転先の学校で差別を受けるという情況も発生している。「原発でつくられた電力は、実は福島県内では使われておらず、私達は20年間にわたって電力を提供するために社会貢献してきたのです。」差別を受けたある子供の母親は、丹波氏に事の不公平さを涙ながらに訴えた。丹波氏は、会の席上で「福島の原発事故が次第に外の人々から忘れられ、福島県民が自分たちだけで対応しなければならない問題になってしまうのではないか。このような悪い予感がしています」と語った。

福島市民による行動

過去に起きた大災害と同様、政府の不十分な対応とは対照的に、市民は屈強の自治能力を再び発揮した。放射能に関する安全距離と汚染について国際的な基準がないため、福島市民は自ら対策を講じることを余儀なくされた。市内各地の放射線量の分布は均一でなく、国や地方自治体による対応の枠組みを採用することもできなかったた。その結果、2011年6月、丸森氏が理事長を務める市民放射能測定所(CRMS)が誕生したのだ。民間の独立した第三者機関として、CRMSは福島に9カ所、そして東京にも1カ所の測定地点を設置し、屋外の空間線量、食品、水、及び土壌を対象に放射線量を測定し、情報公開を行なっている。さらに専門家や医師の支持のもと、健康問題に関する研究と、児童の健康についての情報提供を行ない、市民の自己防衛能力の向上を支援している。丸森氏と同様、CRMSの発起人の多くは小さい子供の母親だ。

交流会に参加した日本の団体は、全て原発事故発生後に設立された組織だった。有機農業で有名な福島では、有機農家以外の農家でも農薬や化学肥料の減量化に努めており、有機農業へ移行しようとしている。原発事故による深刻な土壌汚染のため、現地の有機農業は甚大な打撃を受けた。このような農家によって形成されていた福島県有機農業ネットワークは、現在では汚染土壌の除染・修復を目的とする組織へと転向したのだ。

女性と子供は、災害の影響を特に受けやすいため、女性と子供の健康問題がNGOから注目されるトピックとなり、多くのNGOや地域団体が児童救援活動を行なっている。吉野裕之氏は、「子供たちを放射能から守る福島ネットワーク」のメンバーで、妻と子供はすでに避難しているが、自分は福島に残って活動している。福島に残っている子供達は、毎日の通学時間のほかは室内で過ごさなくてはならず、生活空間が大幅に制限されている。このため、同ネットワークは、福島の子供達がしばらく安全な地域で生活し、常に放射線の影響にさらされるのを防ぐように手配するプロジェクトを計画している。この他にも「地球の友」等の4〜5団体も同じようなプロジェクトを計画しており、福島市内でも汚染レベルが高い渡利地区の家庭を、市内の安全な地域の宿泊施設で数日間療養できるように手配する予定だ。

政府の対応が遅れたため、県内のある村では避難に時間がかかってしまい、高い放射能に2ヶ月間もさらされた。村民は健康への影響を非常に心配している。ある村民は「放射線の影響が現れるには10〜20年もかかる可能性があるため、私達は現在の情況を記録し、証拠として残さなければなりません」と語った。人々は原発事故の影響が遠い未来にまで及ぶだろうことを意識している。

伊達市の言うに言えない痛み

会議場での交流会を終え、一行は車で30分程のところにある伊達市(福島第一原発からは40キロメートル)に向かい、飯舘村の酪農家と飯舘村前田地区の長谷川健一前区長から話を聞いた。

(訳者注:伊達市は、飯舘村に隣接する市となっており、飯舘村は相馬郡に属する)

間もなく地区の中心部に到着しようとするとき、主催者はこの地域の放射線量が高いことを想定し、運転手の隣にマスクを準備して、各自下車する際にマスクを取るように、と言った。私はマスクを取ったものの、迷った末にマスクはつけなかった。他のNGO代表者もマスクをつけた人はほとんどいなかった。コミュニティの中心部にある仮設住宅の側では、韓国のNGO代表者が持ってきた線量計によれば、地面の放射線量は基準値の10倍程だった。会議室に入ると、ビニールのレインコートを着てカメラを設置している人もいて、緊張した空気だった。

長谷川氏は、3月12日に福島第一原発の1号機で、14日には3号機で爆発が起こった経緯を説明した。14日に長谷川氏が放射線測定作業チームの専門家から得た情報によれば、現地の放射線量はすでに毎時40マイクロシーベルトに達していた。長谷川氏は、その晩急いで村に戻り、次の日には住民全員を招集して情況の重大さを説明し、厳重な防護措置を取るように伝えた。15日、毎時100マイクロシーベルトが測定されたことをある記者から聞いた長谷川氏は、全員に避難するよう働きかけた。政府が3月15日から30日にかけて発表したデータによれば、放射線量は徐々に下がっていたのだが、一番高いときには毎時1,000マイクロシーベルトに達していたという情報を別のルートから得ていた長谷川氏は、政府のデータは信じていなかった。

飯舘村は酪農を主産業としていたが、村の酪農家は、3月12日から6月12日の間汚染された牛乳を捨て続けた。その後、村全体が酪農業をあきらめるという決断をせざるを得ず、村の乳牛は屠殺前検査を経て、別の場所に移送して殺すことになった。村のある女性は、自分の乳牛が運び出される車を走って追いかけて見送り、涙を流していた、と長谷川氏は語った。長谷川氏自らも10年間営んできた酪農業をあきらめた。

さらに衝撃的なことは、隣の村で酪農家を営んでいた長谷川氏の友人が、ストレスに耐え切れず7歳と5歳の子供二人を遺して自殺してしまったことだ。膨大な心理的圧迫を受けたため、将来に対する希望を失ってしまったのだ。「原発がなければ、私の生活はこれまでどおり続いていったでしょう。皆さんが原発との闘いをあきらめないことを望みます。」彼は遺書にこのように書いていた。

長谷川氏は、村民が西伊豆の堂ヶ島に集団旅行にいったときの集合写真を見せてくれた。現在、250人の村民は散り散りになってしまっている。写真に写っている人々もあちこちの仮設住宅に移転してしまっており、1枚の写真だけがかつての美しい思い出の証だった。

しかし、生きる希望はまだ消えてはいない。残ることを選んだ村民は、24時間のボランティア・パトロール隊を結成した。月に2回の放射線量測定を行ない、除染を試み、少しずつ田んぼの栽培機能を回復しようとしている。しかし、将来については冷静沈着な長谷川氏でさえも全く把握できていない。長谷川氏は、5年間除染を続ける計画だが、全く無駄な努力になる可能性もある、と言う。放射性物質は土壌に固定されず、水や風とともに村の安全地帯へと移動してしまうことを村民は発見した。私達が訪れた当日も、村民は多くの測定地点で高いレベルの放射線量を検出していたが、政府はいまだ有意義な対策を提示してはいなかった。

全世界のニュースの焦点となっていた福島も、時間が経つにつれて忘れられてしまう危険にさらされている。長谷川氏は、福島を忘れてはならない、福島を差別してはならないことを人々に伝えるため、全国各地で講演を行う計画を立てている。福島の人々はいまだ放射能の脅威に直面しているのだ。

飯舘村と同じような情況にある地域では、財政的支援の不足等のさまざまな理由から、住民の多くが移転できずに現地に残ることを選んだ。ある匿名希望の女性は、伊達市と南相馬市のあいだに住んでおり、原発からは約20キロメートルに位置している。自宅のある地域が計画的避難区域に指定されたが、住民は放射能の危害に対する理解が不十分で、地域に根ざした生活を送ってきた人々は、突然の異変を前に異郷の地で新しい生活を始める自信がなく、ここに残るほかなかった。残るか否かについて住民らは互いに疑心暗鬼になり、隣人関係も引き裂かれた。この女性は、あるNGOの支援のもとに自分の子供を安全な地域に一時的に移転させたのだが、隣人からは、変なことをしたかのようにあれこれ言われた。子供達の間でもこのことについて論争になった。農村地域では、多くの老人が放射能に関する情報を自ら耳にしたものでも頑なに否定し、家族に自家栽培の野菜を食べることを薦めたり、強要したりした。一部の家庭では、子供の健康を心配して食物の産地を選ぶようになった。このような変化は目に見えない刃物となって仲むつまじい地域社会を傷つけたのだ。

「空を見ると前と何の変わりもなく、日常生活も以前と同じです。テレビから得られる情報を頼りにこれらの問題を話し合うことしかできず、行動する力はありません。」この女性の目は虚しさに満ちていた。この地域の人々は、不安に満ちた中で沈黙のうちに耐えているのだ。

南相馬市: 失われた無形文化財

飯舘村を離れた私達一行は、重い心持ちで原発により近い南相馬市へと向かった。南相馬市は海沿いに位置し、原発から北に10〜40キロメートルの距離にあるため、地震、津波と放射線の三重打撃を受けたところだ。バスで進む道路わきの商店は、営業はしていても来客がある気配はなく、サービス業をふくめ全ての業種が不景気なことが明らかだった。

南相馬は、南北の長さは20キロメートルあるが横幅は狭く、市の南部が計画的避難区域或いは居住制限区域に指定されている。7万人だった南相馬市の人口は、津波と原発事故発生後には一時1万人にまで減少したが、今では4万人にまで回復しており、わずかながらも活気が出てきた。

南相馬市は有名な観光地であり、原発事故までは毎年7月、「相馬野馬追」という伝統競馬の祭りが3日間にわたり開催されていた。千年の歴史を持つこの祭りは、戦国時代にまで溯る伝統的な祭りで、全国で最も重要な無形文化財の一つでもある。放射能の影響で現在は中止をやむ無くされており、別の町で小規模に開催されている。

今では多くの若者が南相馬市を離れてしまったため、町は活力を失ってしまった。年配者は、ここに残り、グループを作って行動し、若者の地域に対する信頼を喚起したいと願っている。「私達は、ここで暮らし続けたいと思っています。ここはゴーストタウンではありません。」現地のNGOの代表はそう語った。

政府からの支援が不足する中で、南相馬の市民は30名の専門家の支持する研究所を設立し、子供達の医療情報を記録し、除染についての研究や活動を行なっている。高橋という若者は、以前は原発に勤めていたが、事故発生後は原発と放射能問題についての研究を行なっている。南相馬市で支援活動をしているNGOの協力のもと、放射能汚染地図を作成し、一般市民に対して情報提供を行い、市民の放射能に対する意識を高め、自主的に決断し対応措置を取ることを推進しているのだ。

南相馬で私達は、原発から20キロメートルの場所に立ち寄った。ここでは道路が遮断されており、車はここから先には進めない。数名のNGO関係者は横断幕をかかげ、原発に対する抗議を表明した。

この日は日程がかなりつまっていた。私達は、同じ日の夜には横浜に戻り、次の日から始まる脱原発世界会議に参加する予定だっため、昼食と夕食はバスと新幹線の中で取った弁当だった。主催者は、バスで移動する時間も有効利用し、バスの中で代表団に参加しているNGOの活動を紹介する時間を設けた。

福島県外のNGOの活動転換

事故発生後、対外援助を専門とするNGOを含む福島県外の日本全国のNGOは、活動の焦点を移し、放射能の被害を受けている地域の援助やそれに関する提唱活動に力を注ぐようになった。斉藤氏は、イラクに本部を置く日本のNGOの代表をつとめている。1991年の湾岸戦争中に使用された劣化ウラン弾による放射能は、イラクの子供達に重大な影響を及ぼし、白血病、ガンや先天性の奇形などが発生する比率が大幅に増加している。このNGOはイラクへの人道主義的な医療援助の提供を目的としているが、今は資金の一部を福島の子供達の援助にあてている。

10年の歴史を持つ「自然育児友の会」は、母乳育児の提唱と育児経験の共有を目的としているNGOで、全国で2,000人の会員を持つ。事故発生後、外部からのインターネットによる問い合わせが殺到し、その多くは食の安全についてだった。放射線の影響を受けた母親の母乳から放射性物質が検出され、これまでの自然育児の経験は適用できなくなったため、このNGOは活動の焦点を福島等の地域に移し、医学の専門家によるサポートを求めた。福島に残る妊婦の育児問題について、福島の議員と積極的に話し合い、母親達に安全な食物を選ぶことを推奨し、放射線量が基準を超過している地域の母親に対しては専門知識を持つ医師との相談や、情報・意見を提供している。

2011年6月、自然育児友の会は、20のNGOが参加する全国的な放射能防止ネットワークを組織した。同ネットワークでは、地方自治体との対話や、生徒児童の安全問題や、衛生・教育関連の政府機関との協議を行っている。2011年9月には、福島NGO連合と児童に関する研究討論会を開催し、2012年4月には、福島の児童300名が東京での会議に参加するという活動を行った。

「想定外」の福島第一原発事故の発生後、災害時の救援を専門としている日本のNGOでさえも、このような災害に対応する経験は持ち合わせていなかった。上に述べた2つの例は、日本のNGOが原発事故に対応するために自分たちの活動内容を調整しようとする試みの表れだ。放射能の影響を受けた地域では、住民自らが団体を立ち上げた例も多く、これらの団体と福島外部のNGOが共に行動し、真実を求めて互いに助け守り合っている。これは日本の市民の自治精神が、危機に対応するだけの社会的財産をすでに蓄積していたことを示している。同時に、原発事故に関する政策決定と対応措置の実施について、政府は市民からの信頼を失っており、国民の知る権利と政策決定に参画する権利がまだ十分に保障されていないことも表している。

内容の濃い1日のスケジュールは瞬く間に終わり、心に残ったのは重苦しい気持ちと感動だった。これまでになかった原子力災害に遭遇し、生活の糧や家庭、そして社会が心理的・文化的に傷つけられた情況の中で、日本の市民やNGO・地域団体は、あきらめずに努力し、積極的な自助努力の精神を発揮した。福島原発事故の危害と対策は、長期的に日本社会を悩ませる問題だ。時間の経過とともに福島が忘れられてしまってはならず、全世界が原子力の未来について改めて厳粛に考えなおすきっかけとなるべきだ。

東日本大震災が発生してから、このような規模の国際的な代表団が福島を訪れ、現地の住民と交流したのは初めてだった。この活動の主催者であるピースボートの創始者の吉岡達也氏は、代表団のメンバーらが現地の情報を海外に伝え、全世界が共に福島の情況に注目してくれることを願っている。吉岡氏は、「これは歴史的に意義のある一歩だと思っています。これからもこのような活動を続けていくつもりです。」と語った。

筆者: 付涛

出典: 中国発展簡報2012年春季刊

http://www.chinadevelopmentbrief.org.cn/qikanarticleview.php?id=1305

翻訳: 川口晶子

校正: 棚田由紀子

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