2012/07/01 by Matsue

復新学校の最後のボランティア―皖北地区の草の根NGOシリーズ(1)

筆者注:安徽省北部の阜陽市、そしてもともとは阜陽市の一部だった亳州市一帯は、経済面では未発展地区に属し、全国でも出稼ぎで多くの労働者が出て行く地区となっている。

この地区は、公益活動の面でも遅れていたが、現実的に解決の必要な数々の問題があったため、国際NGOの「セーブ・ザ・チルドレン」や、「ヘイファー・インターナショナル」も古くから阜陽市にオフィスを構えていた。これら国際NGOの存在は、現地NGOの発展に、客観的に見て様々な利便性をもたらし、それによって阜陽市、亳州市、それに省都の合肥は、安徽省の公益活動の発展が最も早く進んだ、特徴ある地区となっている。2012年の春節、筆者は里帰りのついでに阜陽市と亳州市のいくつかの民間団体を訪ね、公益活動の道を10年、いやそれ以上も黙々と歩いてきた人たちの話を聞く機会を得た。

生徒数12名の学校

皖北地区の阜陽市から渦陽県までは80数キロほど、年の瀬もせまっていたため、村々には市が立っていた。老朽化したアスファルト道路はでこぼこで、連日の雨や雪の後、埃っぽい道には泥が堆積している。郊外路線のバスは、午前中ずっと着ぶくれた人々の間を縫うようにしてゆっくりと進んでは停まり、進んでは停まりして進み、亳州市渦陽県にある、臨湖鎮郊外の康楽城に着くころには午後1時半を回っていた。

康楽城は80~90年代の中国の任侠時代劇の撮影現場のような外観で、真冬の寒風の中、だだっ広い畑の中にぽつんと存在していた。復新学校の田楠校長は校門のところで長いこと待っていてくださった。年は30歳くらいで、身長は180㎝を超えている。もこもことしたダウンジャケットを着こんでいても、痩せている印象だった。壁の塗装も剥げ落ちた康楽城に入り、歩きながら話を聞くと、果たせるかな、ここはもとは著名な武僧、海灯法師の最後の弟子が寄贈した武術学校で、その後民間の学校に貸して康楽城学校となっているということだった。

かつて世にその名を轟かせた、全国で初の、ボランティアによって支えられる学校―復新学校は、現在は個人的なつてでこの康楽村学校の中に間借りしており、現地の人たちには「復新班」と呼ばれている。

田楠校長に熱心に勧められて、筆者は学校の食堂でおかゆをごちそうになった。そこには、冬休みを利用してやってきたボランティアが作ったまだ温かい料理が残っていた。このボランティアたちは、大学性による教育支援組織「CADE(The Club Association Of Dream Explorer)」が募集したもので、全国各地から集まっており、そのほとんどは既に淮北平原の、暖房の無い寒さにやられ、体の丈夫な者だけが、使い捨てカイロを手に教員室でおしゃべりをしていた。私は始め、彼らは復新学校のボランティアだと思っていたのだが、話をしてみるとそうではなく、康楽村学校の朱校長がインターネット上で募集し、中学三年生の卒業生に向けて補修をするために来た者だということが分かった。ボランティアたちは、私がなぜここに来たのかということについていくぶん訝しんでいたようだった。なぜなら復新学校は既に「学校」と呼べるようなものではなく、田楠校長の教育理念も実現できるのかどうか、大いに疑わしかったからだ。

昨年は、復新学校にはまだ14名の生徒がいたが、現在は12名だけになっている。みな、渦陽県の高公鎮あたりに住んでいる者たちで、冬休みになると帰省する。学校がここに移ったのは、もともと借りていた場所の家賃が上がってしまい、資金を集めるのも難しい状況であったためだ。田楠校長と朱校長は仲が良かったため、移転することによって、校用車だけが少し高くついたが、家賃、水道代、電気代が節約できた。移転によって、二人の生徒は学校が遠くなり、通学をやめてしまった。実は田楠校長は、12名の生徒でも十分だと考えている。なぜなら彼を含めて、学校には2名の教師しかおらず、授業の実施も、事務的業務も、資金集めの方法を考えるのにも、忙しすぎたからだ。

田楠校長は、1921年にイギリスで生まれたサマーヒルスクールの自由教育理念を提唱している。彼によると、教育において、学生は自分で起床や授業への参加を選択する。活動においては、図書室、木工室、美術室は一日中開放されていて、生徒は自分で本を借りたり返したり、閲覧することができるし、自由に木工や美術の設備と材料を使うことができる。学校事務においては、教師の雇用と学校財務のほかは、学校のことはすべて教師と生徒が共同で決定する。一人一票で、教師と生徒の権利は平等である。毎週、学校会議で次の週の「裁判官」を選出し、監督・調査、規律違反の裁判、訴訟の受理の責任を負う。

十代の生徒は、このような自由教育理念に適応する能力を持っていないのではないだろうか?私の問いに、田楠校長は、人間に潜む能力は、自分で呼び起こすものであり、十分に信じてやることで、子どもでも自分で自分のための決断をすることができるのだと考えていた。彼は数学や物理を教えるほか、さらにディベートの授業も行い、生徒がインターネットや社会で盛んに論じられている問題について討論し、視野を広げるようにしていた。このような教育は、農村の学校ではなかなか得られないものかもしれない。

それでも、田楠校長は、自由教育理念の効果は更に引き上げねばならないと言い切る。学校で実施しているカリキュラムは、一般の中学・高校と同じ基礎的な授業であり、先学期はいつも1~2名の生徒しか授業に出ようとせず、他の者は外で遊んでいる状況であった。また図書館や美術室の学生による自主管理においては、物品の返却や環境をきちんと整えることもまだまだできていない。

では、これらの生徒たちは中学を卒業した後、どのような道に進むのだろうか?田楠校長は少し考えて言った。1~2名くらいは高校に進学するかもしれないが、その他は卒業したらすぐ出稼ぎに出るだろう、と。彼は、出稼ぎに出るのは理想的な人生の選択肢ではないと考えているが、しかし、現在通学中の十数名の生徒やその親たちは、学校がどのように教えようと特にどうでも良いのだ。卒業する前に出稼ぎに出るのでは年齢が低すぎるし、この学校に通ったところでそれほど金がかかるわけでもないーー復新学校では生活費を徴収するのみで、一学期の費用は500元、他には一切費用がかからない。

外からやってきたCADEのボランティアたちから見ると、田校長の考え方はとてもすばらしいが、現在の復新学校では、資金、教員、授業のソフト面もハード面も含め、自由教育の条件も環境もまったく実現できていないように映る。それに、このような奔放な自由教育の中で育成された生徒が、卒業して出稼ぎに出るとき、社会に適応できるのだろうか?将来、受験のための教育の道を、努力して歩んでこなかったことを後悔しないだろうか?社会の負け組とレッテルを貼られないだろうか?これに対し、田楠校長は自分も振り返ってみればこの10年近くボランティアの道を歩んで今に至っており、自分も社会の様々なプレッシャーに直面してきた、どうしたって勝ち組とはとてもいえないと少し自嘲気味に語った。

田楠校長は河南省の駐馬店の出身で、大学を卒業するとき、ボランティアの仕事をしたいと考え、当時話題になっていた復新学校に入ったのだった。一度は私立学校に移って教鞭を取ったものの、復新学校のことがずっと気になっており、すぐに戻ってきた。 2003年から数えて、今年で既に10年目に入った。

10年越しの教育の夢

創立者の殷永纯が問題を起こす前は、もちろん問題を起こしたそのときもそうだが、復新学校の関連の報道はネット上で大きく取り上げられていた。「南方報業」系列のメディア、「公益時報」などは特に良く取り上げていたため、7~8年前の記事をいくつか読んだだけで、学校の創立期の歴史が明確に理解できた。

復新学校は当初は復興学校といい、2000年に渦陽から40~50キロ離れた阜陽市利辛県に創立された。北京大学卒の殷永纯が来たことで、またたく間に話題となった。地方政府が公立学校の管理をボランティアに任せるーー教員は政府から給与が支払われるが、給与のないボランティアが学校を管理することになったのだ。

教員とボランティアの間の理念の衝突によって、2002年11月、殷永纯は5名のボランティアを連れて渦陽に移り、学校名を復新学校と改称して一から再出発した。翌年6月、大学を卒業したばかりの田楠も加わった。彼の記憶では、当時学校には十数名のボランティアがおり、生徒は300~400名で中学生も高校生もいた。その後、生徒は減少の一途をたどり、2007年ごろは100名少し、2009年ごろには数十人になり、現在は十数人しか残っていない。

原因は何だったのだろうか?田楠校長の分析では、前の校長の不祥事、建学の理念と社会の現実との乖離、ボランティア間や外部の人間との不和、プロジェクトの失敗などが原因だ。

復新学校は殷永纯が名をはせた場所だが、彼が最も触れられたくない痛恨の地でもある。2005年、殷永纯は生徒へのわいせつ事件を起こし、圧力と妥協の元で学校を離れ、以後はまったく関与していない。

この、全国を揺るがすスキャンダルの後も、復新学校は何とかやってきた。その年、復旦大学から来たボランティアの沈韶清が、危険を顧みず命令を受け入れ、殺到するマスコミの前でボランティアと生徒とが学校の今後について公開決定し、今後も学校を存続させることとして、現在に至る。

ボランティアにより支えられる学校として、復新学校は創立時の理念として「第一に人であれ、第二に勉強せよ」と提唱している。しかし教育方法は依然として旧来の方式で、進学率を追い求めていた。特に2007年から2008年に孫伝美校長が在任していたときは、特別に高校進学、大学進学を目指した教育を強調していた。伝統的な学校と比べて復新学校の特徴は、ボランティアが全国各地から集まっており、多様性があることと、公益団体が頻繁に様々な活動を実施して、生徒たちに興味を持たせ、視野を広げることができることだ。

しかし問題は、何年もたっても、学校の進学率 が上がらないということだ。ボランティアが入れ替わり立ち代りすることが原因かもしれないし、他に原因があるのかもしれない。結局、子どもが学校へ行くことで未来を変えられるという希望を、親が持っていないことが問題だと田楠校長は考えている。教員と生徒の関係は良好だが、生徒が数年遊んで、卒業後出稼ぎに行ってしまえば、生活は何も変わらない。公立学校もここ数年で無料化が進んだ上、農村の親も金持ちが増えているので、子どもを町の学校にやるようにもなった。また親が出稼ぎに行くときに、子どもも一緒に連れて行く者もいる。様々な原因が重なって、生徒はどんどん少なくなっている。

ボランティアによる教育方法は、進学率に影響しているほか、このことによる矛盾が学校の管理と発展に影響していることも確かだ。田楠の記憶では、学校の全盛期には、ボランティアの数は多かったが、いつも問題が生じていた。全国各地から来たボランティアたちはたいてい個性的で、それに反して学校側の管理と規則の制度は脆弱だった。ボランティアたちは、ボランティアなのだから拘束は受けない、ボランティアとは一種の自由であると考えるものが多かった。ボランティアと教員の間にも衝突があった。教員のタバコや酒、体罰の習慣を、ボランティアは我慢できない。ボランティアが男女で歩いたり話したりするのを、教員は我慢できない、といった具合だ。ボランティアによって支えられている学校にもかかわらず、校内に存在する社会の階級に不満を持つボランティアもいた。殷永纯校長のころ、食事係のおばさんが校長のために特別に食事を作ることがあったが、平等を追い求めるボランティアはこれに不満を唱え、団結してハンガーストライキに入り、皆同じように働き、同じ食事をすべきだと主張したこともあったそうだ。

田楠校長の前の校長は、香港で公益事業にかかわってきた年配の人で、「TFC」(Teach Future China)の創始者、沈世德氏であった。田楠校長には、沈世德氏は大変能力の高い人材に映っていた。彼の在任時には、資金面で苦労したことはなく、田楠校長が引き継いだ後も、その恩恵に預かれたからだ。しかし沈世德氏が多大な労力をかけた復新学校も、坂道を転がり落ちるばかりだった。直接的な表現をすれば、彼が着任したときはまだ60~70名であった生徒が、離任時は十数名になっていた。

沈世德氏の任期中、南都公益基金の新公民計画と、海外中国教育基金の資金援助プロジェクトを引き継いだ。田楠校長によれば、この二つのプロジェクトはどちらも失敗だった。予算は使い果たしたのに、プロジェクトは完了しなかったのだ。プロジェクトの失敗の詳細については、田楠氏は始めあまり多くを語りたがらなかったが、彼は沈世德氏のせいだとは考えていないようだった。沈世德氏は忙しすぎたので、多くのことを部下に任せていた。原因を探すとしたら、直接の担当者の責任の方が大きいだろう。しかし、後にまたこの話題に戻った際、田楠氏は、プロジェクトの実施は書面上の数字のように簡単にできるものではない、援助額は多く見えるが、実際はすぐになくなってしまうと語った。学校は予定外の支出で費用がかかることが常であった。例えば、新公民計画の資金援助は、教員と生徒のトレーニングのためのプロジェクトであったが、資金は別のところに使われ、トレーニングは最後まで完了しなかった。海外中国教育基金の資金援助計画は、募集してきたボランティアに生活費を提供するものであったが、実際はボランティアの募集とトレーニング自体にも費用がかかり、これらは学校側が負担しなければならなかった。さらにボランティアの管理制度もずさんなところがあったため、最終的にプロジェクトへのフィードバックもされないままだった。

最後のチャンス

2010年の夏、沈世德氏は学校を去り、教育支援のブランド「TFC」(Teach Future China)の立ち上げに専念することにした。後を引き継いだボランティアの張偉もすぐに替わり、田楠氏が学校の唯一の教員となり、理事会の選挙で校長に任命された。この思いがけない名誉を、田楠校長は決して自分の能力がここまで来たのだとは思わず、一つのチャンスととらえた。

校長になって一年少し学校の運営に携わり、家賃の値上げから私立学校の中に移転して来ざるを得なくなり、身動きを取るのも困難だという形容をするしかない。去年の資金は、すべて寄付でまかなったが、今年の資金はまだ解決していない。実は必要な費用はそれほど多くなく、年間で1万元ほど、半分は2名のフルタイムボランティアの教員の生活補助費で、一人毎月300元、そのほかはほとんどが校用車の費用で、1年に数千元ほどだ。

だが資金集めの件になると、田楠校長は頭を悩ませる。

資金集めの障害は、復新学校が現在は私立学校の名のもとにあり、合法的な教学の資格を持っていないことだ。学校としての名がきちんとしていなければ物事はうまくいかず、資金集めにも苦労する。また基金に頼ってはどうか?田楠校長はもうそれを試すことはしたくないー以前のプロジェクトの失敗から、どのような言い訳をしたとしても、復新学校が長年築いてきた信頼は失墜してしまったのだ。沈校長が去ってから、田楠校長も海外中国教育基金との連絡を試みてきたが、うまくいかなかった。先方がこちらへの信頼を無くしていることもあるし、双方とも人事異動で担当が変わり、連絡が途絶えてしまったこともある。

このほか、田楠校長の話の中からは、自らが提唱する自由教育理念への自信も不足していることがうかがえた。彼が言うように、能力を備えたわけではなく、一つのチャンスを得たということであって、まずは試行し、成果が出てから提示することで、資金集めの際も説得力を増す。目前に迫っている資金問題については、個人的な知人を含め、連絡を取り続けている知人や、長期にわたり復新学校に注目してくれている熱心な人、また電子掲示板上でも寄付を募っている。

実のところ、田楠校長は口下手な人で、話の中でも自分にはそのような大きな責任を担う能力がないようなことを何度もおっしゃるが、彼のポータルサイトやブログサイトを覗いてみれば、彼がどのように12名の生徒を率いて、雑草だらけの運動場を整備したり、黒板も何もない教室の壁を白く塗ったり、図書室や活動室を作ってきたりしたのかが、すぐわかるだろう。

復新学校のブログサイトはほとんど毎日更新されている。この原稿を送信する前にチェックしてみたが、最新のトピックスによると、学校は既に学期が始まり、今学期は4名の生徒が出稼ぎのために退学、1名が転校し、7名の生徒が残っているとのことだ。

 

作者:郭婷

中国発展簡報2012年春号より編集、翻訳して転載

原文:http://www.chinadevelopmentbrief.org.cn/qikanarticleview.php?id=1307

翻訳:三津間由佳

校正:松江直子、棚田由紀子

 

 

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