2012/06/25 by Matsue

「戦い」ながら成長する―災害管理・復興日中NGO交流活動に参加して―中国発展簡報編集長・劉海英

2011年12月9日―15日、中国で災害救援などに携わる民間の10団体から11名が来日し、CSネットの主催する災害管理・復興日中NGO交流活動に参加した。5日間で2回のワークショップを行ったほか、3日間被災地に留まって民間団体や被災者を訪問し、復興状況への理解を深めた。こうしたNGO交流を通じ、日中両国が災害救援の民間協力メカニズムを如何に構築できるかを探りたい。

NGO:中国のもうひとつの「顔」

12月9日の夕方、私たちは東京に到着し、折よく開催された「RQ市民災害救援センター」(以下RQ)の報告会に参加した。会には被災者や行政担当者も参加しており、私たちの到着を見計らって「中国非公募基金会フォーラムの寄付に対する感謝イベント」も行われた。

3.11発生後、中国国内には日本が巨大な災害に見舞われたことに対し、二つの全く違う態度が見られた。中国のNGOは国際間の活動にまだあまり慣れていないが、CSネットが掛け橋の役割を果たしたこともあり、隣国日本を支援する今回の旅には多くの団体が参加した。CSネットは2010年7月に東京で設立した民間公益団体で、中国と日本の公益分野における交流と業務連携を促進している。3.11発生後、CSネットはRQ支援プロジェクトを立ち上げ、中国の援助団体にRQの活動を紹介し、中国から各種の寄付やサポートを引き出した。RQは、中国非公募基金会に加盟する11の基金会から142万元(約1775万円)を受領し、これは中国のNGOが日本のNGOに対して行った史上初の寄付となった。

12日、私たちは被災地である歌津にある仮設商店を見学した。被災者たちはここで日用品・理髪店・果物屋・家具屋などを営んでいるが、店はすべて新設された大きな建物の中に入居していた。外の空き地にはかつて被災地を走りまわって物資を輸送していた車両が止められていたが、一台の車両には笑顔の描かれた中国非公募基金会フォーラムのマークが貼られていた。災害発生当時、中国のインターネット上には日本が被災したことを喜ぶ言論も見られたため、中国人はみなそういう態度だと日本人に思われるのではないかと心配せずにはいられなかったが、中国を表すマークが日本の被災地のあちらこちらで見られることに、思わず安堵した。また、建物の裏手に設置されたボイラーにも基金会のマークが貼られていた。これは、142万元の寄付のうち、51万元は日本の森バイオマスネットワークに渡され、被災者に木質ペレットストーブを届けるプロジェクトに使用されたからだ。このプロジェクトは当初の思惑を超えた社会的効果を生み、被災地が今後、環境保護型で持続可能なエネルギー利用を実現し、自然と共生する地域社会を建設するためのドアを開くこととなった。また、この環境保護型ストーブは、同行した中国NGOの興味を引いた。同様の資源を保有する中国の地域で、導入を検討するそうだ。

被災地に入ってまず向かったのは、仙台だった。訪日団一行には1950年代生まれから1980年代生まれまでいたが、仙台は魯迅が医学を学んだ場所であることを全員が知っていた。そのせいだろうか、東京や大阪のような都市に比べ、仙台にはより親しみを覚えた。仙台ではちょうど年に一度の光のページェントが行われており、長い通りが色とりどりに飾られていた。沿道の店にも小さな祭壇や横断幕がしつらえてあり、「復興仙台」と書かれていた。

その後、私たちは今回最も甚大な被害を受けた大川小学校を訪れた。108人の児童が校庭に避難し、教師たちが避難方法を議論している時に津波が襲い、79人の子供の命を奪い去った。コンクリートの枠のみが残された2階建ての校舎の裏山には松林が見え、外側の一列の樹冠の一部は黄色く枯れていた。日本人のボランティアが、あの辺りの木は海水に浸かったのだと教えてくれた。

学校の傍らには石碑が建てられており、おそらく子供の遺品と思われるコップや訪れた人が手向けた花が供えられていた。私は北京から持ってきた食べ物を遺品の横に供えた。石碑の横には、うつむいて幼子に乳を与える安らかな表情の母親の石像が置かれており、私はとめどなく涙を流した。日本が中国を侵略し、虐殺行為を行ったことは忘れられないが、人類のある種の感情は民族や国家を超えるものだ。中国の母も、日本の母も、この一瞬の痛みは同じであり、これはおそらく人類が共通して持つ情感なのだろう。私たちが中国語を話しているのを聞きつけて、一人の男性が自分は内モンゴル人だと言ってきた。彼は現在日本に定住しており、地震発生後からずっと被災地で慰問公演を行っているそうだ。

被災地で最期に訪れたのは大船渡地区の復興支援プロジェクトで、日本各地のグルメを集めた屋台村が建設中だった。私たちを迎えてくれたのは中年の女性で、「おふくろの味 えんがわ」という飲食店を営んでいた。彼女の母親は80歳だが、復興の力になりたいと思っているそうだ。彼女と母親が暮らす仮設住宅を見ていくように熱心にすすめられ、私たちは車で向かった。道すがら、彼女は平地となった場所を指して、ここが自分の家だったと言った。津波が来た時、彼女の母親は付近の山に向かって走り、彼女には車で逃げさせた。仮設住宅は静かできちんとしており、多くの家の前には花の鉢植えが置いてあり、裏手にはビニールで覆われた長方形のプランターがあった。被災者たちはここに野菜を植え、小さい野菜温室にしているのだった。彼女の80歳のお母さんは、お店で使おうと、沢山のクッションを手づくりしていた。別れ際、お母さんは私たちに二つの大きなリンゴを下さった。四川5.12民間救助サービスセンターの郭紅さんは、14日の交流会で、これはお母さんからの祝福だからとリンゴを参加者に切り分け、このお母さんの強さを語りながら、こらえきれずに涙をこぼした。

このお母さんの娘である女性にとって、私たちは生まれてはじめて見る中国人だったそうで、言葉以外は日本人ととても似ているのですねと言った。その日の彼女のブログにはこう書かれていた。「今日は遠く中国からのお客様が見えました。私は仮設商店街、そして私と母が住む仮設住宅を案内しました。短い時間だったけど、インターナショナルな時間を過ごしました。遠くから来てくださり、お土産もいただき、ありがとうございました。今度は屋台村の店主たちが腕を振るった料理を食べに来てくださいね!」

主催者は私たちが日本についた時に、「日中の感情はどんどん悪くなり、20年前は70-80%の人が中国を好きだったのに、いまは嫌いになった。好きになるのも嫌いになるのも、すべて理解不足と勝手な想像のせいだ。想像するのは、ひとつの国家であり、具体的な顔ではない。今回の目的の一つは具体的な人と人をつなぐことだ」と語った。

政府や企業以外の中国のもうひとつの「顔」として、中国NGOが世界にその姿を現していることは、もはや疑いのないことだ。ただ、ソフト・パワーの重要性をずっと強調してきた中国政府自体が、実はNGOの力をまだ完全には認識できていない。

規則を定めない「アメーバ組織」

RQは、自然学校のネットワークを基盤として3.11地震後に広瀬敏通氏(以下広瀬氏)によって設立されたボランティア救援団体で、地震の三日後から活動を開始した。2011年12月のデータによれば、被災地でのべ3万7千人のボランティアが活動を行い、400トンの物資を配り、550か所の避難所と仮設住宅で5万人余の被災者のために各種のボランティア活動を行った。宮城県登米市に本部を置き、県内の4つの地区にボランティアセンターを設置したほか、女性支援センターや地域再建支援チームなど長期的支援を行うチームを立ち上げ、支援を行っている。できて間もない民間救援団体が、このような短期間に何故大量の仕事をこなすことができたのであろうか。その秘密は、規則を定めず、ボランティアひとりひとりが自分の活動に責任を持ったからで、それらを可能にしたのが十分な情報共有だった。RQのこの独特な理念と運営方法は、私たちにとって耳目を驚かすものだった。救援の実績もその有効性を証明している。

広瀬氏は語る。多くの団体はピラミッドのように階層式の管理モデルで運営している。しかしRQは初めから中心のない平等な組織形態を取っていた。あるリーダーが「自分がいなくては駄目だ」と考えたとしても、実際はその人が去っても新しいリーダーが生まれる。ボランティアも同じことだ。アメーバのように、身体の一部を切り落としても、再生する。日本に着いて以降、繰り返し日本人が「アメーバ」という言葉を言うのをきいて不思議に思っていたが、もともとは日本の著名な経営者である稲盛和夫氏がその著書『アメーバ経営』の中で使った企業管理モデルのことで、会社内部の小集団がアメーバのように自由自在に細胞分裂を繰り返すという意味だそうだ。

人類の集団では、規則は大変重要なものだと認識されている。しかし、気をつけないと規則はどんどん増え、規則を守るための規則が生まれかねない。災害発生の緊急事態において、規則のほとんどは時間の浪費させるものだ。RQは活動しながら、絶えず規則の簡略化を行ってきた。

規則がないと言っても、完全にないわけではない。RQも活動の初期に基本的な規則を決めていた。まず、相互の信頼、次に前向きになれる活動を行うこと。被災者が絶望していても、ボランティアまで絶望してはならない。被災者に笑顔で向き合うことが規則となった。三番目にはすべてのものを受け入れる度量を持つこと。世界には自分とは違う考え方や行為が沢山存在しているのだから、他人に悪い影響を与えない限り、できるだけ受け入れるということだ。最期のひとつは「不公平」。外からの支援物資の分配時に、避難所の人数が多く物資が少ない場合、行政は「不公平」を避けるため分配せず、無駄になった果物などの食品が多かった。RQはたった一つのリンゴでも、二つに切って分配する。あるいは高齢者やニーズの高い人に配る。

こうした「規則がない」という規則は、実際の運営上では難しい問題にもぶち当たった。ある時広瀬氏は用事で現場を一週間離れなければならなくなり、とても有能なボランティアが来てすぐに救援システムを作り上げた。そして沢山の文章を書いて救援本部の職責やボランティアの日課を制定して皆に守らせ、規則遵守を監督する役まで設置した。しかし、ボランティアの流動性が高いため、毎日この規則を説明しなければならず、ボランティアからは時間の無駄だとの声が上がった。そこで皆で議論の末に規則を撤廃し、規則遵守の監督チームも解散することとなった。

もし災害救援ボランティアが、会社組織とおなじように上司が一切の責任を持つという形だったら、すべての活動に多くの判子が必要となり、限られた活動しかできなくなるとRQは考えている。皆が自分の行動に責任をもってこそ、活動も気持ち良くできる。初めてRQの会議に参加する人は、リーダーの話を聞いていればいいだろうと初めのうちは思っているが、黙って指示を待っていても何もはじまらない、自分で行動を起こさなければならないことをすぐに意識するようになる。

秘訣:徹底的に情報を共有する

こんなに多くのボランティアと、被災地における様々な仕事を、規則もなしで如何に振り分け、ボランティアに自分の長所を生かせる仕事をすばやく見つけさせ、効果を生み出しているのだろうか。その秘訣は、すべての情報の徹底的な共有だ。RQでは到着したばかりのボランティアにも、すべての情報を与える。それにより、ボランティア自身が自分を活かせる場所を見つけられるからだ。

情報の共有と伝達にはコストがかかる。広瀬氏が最も多く体力と時間をとられたのも情報共有業務だ。2004年の中越地震発生時、彼はあるボランティアセンターで責任者をしており、多くの行政関係者や半官半民の団体が多くのボランティアを捌ききれず、ついにはボランティアを断る事態になったのを目にした。広瀬氏のボランティアセンターではボランティアの受け入れを続けたので、ボランティアはそこに集中し、毎日千名ものボランティアがやってきた。「ボランティアは仕事を調整し、支援物資や寄付を手に、不便な交通事情の中、万難を排してやってくる。もし断ったら、その人は今後一切ボランティアをやらなくなってしまうかもしれない」と広瀬氏は考えたのだ。

とはいえ、毎日千人のボランティアを管理するのは大変なことだ。そこで、彼は情報共有会議を開くことにした。その時のやり方は、一日4回の全体会議を開くというもの。朝7時、駐在ボランティアがまず1回目の全体会議を開く。9時、各地からやってきた人と駐在ボランティアが2回目の会議、午後4時には活動から戻った人を集めて3回目の会議、夜7時には翌日も活動を継続する人のために4回目の会議をひらく。また、午前中の会議に間に合わなかった人のために、昼の12時にも会議を行った。

一日5回も情報把握の機会がある人は、ボランティアから戻ったあと、周囲の人に被災地の状況を伝えることができる。「メディアには載らない情報をここで得ることができた」、RQものちに多くのこうした感謝の手紙を受け取ることになった。中越地震では情報共有は非常に大切だが、一日5回の会議は大変だという教訓が残ったため、今回の3.11救援活動では一日2回の会議とし、東京などでも情報共有の集まりを開催することにした。

災害の中で鍛えられた民間救援団体

日本のNGOによると、日本では各地の行政機関や民間団体などで防災教育が行われているそうだ。これらの防災教育活動を企画する際は、実際に災害を経験した人が実施するのではなく、災害を想定して行われることが多い。ある地方ではその場限りのにぎやかなお祭りのような災害教育を行っていたが、のちに行政は問題に気づき、仮の災害現場を作り出し、其の中で体験的な防災教育を行う方式に変えたという。とは言え、やはり災害現場ではないので、実際に災害に襲われた時に大きな効果を発揮しにくい。広瀬氏は17年前(の阪神・淡路大震災)より災害現場で行う災害教育を提唱している。災害現場には最も多くの情報があり、人々を鍛えるチャンスになる。

今回、交流した日本のNGOでは、出会ったボランティアの多くが災害救援の経験を豊富に持つ「歴戦の兵」だった。それは災害救援方面の経験だけにとどまらない。彼らは社会運動に参加した経験やそこで得た視野のお陰で、素早い反応ができるようになった。3日間の被災地訪問中、私たちのドライバーをしてくれたボランティアは、若い人のように見えたが、すでに30年の災害救援ボランティアの経験があると言った。17歳からやっているというのだ。

私たちが被災地の宮城県で訪問した現地NGOのひとつが、せんだい・みやぎNPOセンターのみやぎ連携復興センターだ。センターの責任者は「ツイッターマニア」で、私たちと会うなり一緒に写真を撮ってツイッターに投稿した。この人は地元の人ではなく、2007年の新潟地震の際、現地で三カ月あまり活動したそうだ。今回仙台でその時の経験を役立てようとやってきたのだ。彼の話では、新潟地震でも海外からの被災地に対する資金援助があったが、その資金は現地の要望に沿った復興という形では使われなかったそうだ。3.11の後、大量の資金が流入しているが、今回も復興の方向性の問題が発生しているのではないか。彼が新潟地震から得た教訓は、復興の主役は現地の人、ということだ。被災者特に現地の地域社会のキーパーソン同士をつなぐことが、よそから来た者の大事な役割だ。それで、今回も彼は被災地に入り、緊急支援が終わったあと、業務の中心を現地の人々の関係構築と起業力の向上を支援することに移した。

今回出会った人の中で、最もすごいと思ったのは、やはり広瀬氏だ。14日のフォーラムで、中国藍天救援チームの制服に身を包んだ張勇氏が、自分たちの救援活動や訓練について皆に説明を行った時、席から見守る私たち中国人はとても誇らしく、興奮していた。広瀬氏は彼の発表をききながら、1980年代に日本の国際緊急援助隊を立ち上げた時のことを思い出していたそうだ。日本は1982年に緊急援助隊を創設したが、彼はその創設メンバーだ。また、彼には長年の社会運動経験がある。若い時からアジアで20年間NGO活動をし、カンボジア内戦、ソ連のアフガン侵攻時には現地で難民支援に携わった。1995年の阪神淡路大震災以降、日本では毎年、大小さまざまな規模の地震が発生しているが、毎回の地震発生直後にはチームを率いて救援活動を行う広瀬氏の姿が見られる。インドネシアの津波や南米の地震にも支援を行い、中国の四川大地震や2011年の盈江地震にも注目していた。

広瀬氏は日本で初めて自然学校を設立した人でもある。報道によれば、ある一定の規模を備えた自然学校は現在日本に3700校あまりあり、大きな経済的効果と社会的効果を生み出している。年収が3億円に達する所もあるそうだ。

自然学校はもともと自然教育を提供する団体だが、長年に亘って野外教育と自然体験活動の中で蓄積してきた技術と経験により、災害発生後はすぐに現場に駆け付けることができる。阪神淡路大震災の発生時、広瀬氏は自然学校の仲間たちに救援を呼び掛けたが、当時の仲間の中には「災害救援は専門じゃないから行けない」という人もいた。そんな中、ずっと行動を共にしたのが今回3.11地震でも肩を並べて戦ったくりこま高原自然学校校長の佐々木氏だ。のちの新潟地震の時にはより多くの自然学校が救援活動に参加し、今回は、全国の60あまりの自然学校が参加している。

私たちは、被災地である歌津で活動をしている、現在設立準備中の自然学校を訪ねた。学校は山の中腹にあり、下に見える村の施設は地震により完全に破壊されていた。難を逃れた子供たちはここで活動し、大人たちはボランティアとして子供たちを支えている。津波で流されてきたタイヤも、ここでは活躍の場を与えられ、積み上げられて跳び箱になっていた。ここには電気が通っていないため、太陽光温水器がある。大きなテントでできた活動場所は、私たちが来る2週間前にできたものだ。中では映画の上映会などの活動が行える。その地面には薪を焚いて暖を取るための穴が掘られており、足を入れると暖かい。とても原始的な暖房方法だ。子供はここで、最新の家電やガスがない情況下で如何に生き延びるかを学び、人と自然のつながりを再構築する。

自然学校は4年ごとに全国調査を行っており、今年で20年目だ。自然学校の主な領域は、長年、環境教育と子供が健康に成長するための教育だったが、3.11の2―3か月前に行った最新の調査によれば、地域再生がすでに主要な活動内容になっている。自然学校の多くは美しい農村にあり、その農村は今、高齢化や人口減少など多くの問題に苦しんでいるからだ。自然学校が向き合っているのは、自然だけではなく、地域の文化と伝統もある。「農村地域で活躍している若者がいたら、その大半は自然学校の人だ」と、友達が言った。

おわりに

日本は災害が頻発する国であり、世界的にも地震災害の最も多い国のひとつだ。頻繁に起こる災害を前に、日本人は災害に対する自分なりの理解と対応方式を心得ており、日本のNGOとボランティアには、長年の災害救援の経験がある。RQの効率的で秩序だった仕事ぶりと日本のNGOの明確な方向性を見て、その背後には、長年の社会運動への参加で培った活動の蓄積と経験があると思った。中国にはNGOが主導する社会運動などないし、中国のNGOが集団で参加した災害救援の歴史もまだ浅い。2008年に中国の西南地域を襲った雪害に対してNGOが連携して救援活動を行ったことを皮切りに、2008年の四川大地震では、多くのNGOが広く緊急救援に参加した。その後も重大な災害が発生するたびに、中国のNGOも実践の中で急速に成長してきた。この文章を上梓するこの時、中国の災害救援NGOたちは、初の聨合救援行動の綱領について合意に至った。壹基金の支援の下、西南地区の多くの団体がひとつの地域災害救援・防災ネットワークを構築し、突発的な災害に対し、効果的で素早い対応を取れるよう、災害救援と防災の総合的な能力と実力を向上させることとなったのだ。

出典:中国発展簡報2012年春号より翻訳して転載

http://www.chinadevelopmentbrief.org.cn/qikanarticleview.php?id=1304

翻訳:松江直子

 

 

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