2012/05/30 by jixin

【広瀬敏通】RQの3.11 一周年シンポジウム詳細(一)

東日本大震災から1年を迎える目前、3月6日(火)に開催した、第3回RQシンポジウム(主催:社団法人RQ災害教育センター)。

平日の16時スタートにもかかわらず、西日暮里の会場には多くの方が足を運んでくださいました。

参加者と各拠点のスタッフがフランクに話ができる場に、との思いから今回、16時から17時20分まではお茶っこタイムと称し、各拠点が現在の活動をアピールするブースを設置。

唐桑ブースでは養殖中の牡蠣が、歌津ブースではポン菓子製造機が登場。

そしてRQWのブースでは、被災地のお母さんたちがつくるバラ、タコ、マンボウなどカラフルなエコたわしも販売され、ポットラック方式で持ち寄ってもらった軽食をつまみながら、会場は賑やかな雰囲気となりました。

<第1部>祈り

1分間の黙とうで始まった第1部は、祈りをテーマに、津軽三味線の車谷建太さんとソプラノ歌手の竹林加寿子さんが演奏および歌を披露。

「歌を通じて気持ちを分かち合うことができたのではないか」この1年間、被災地を回ってきたお二人は、そんな思いを語ってくれました。

<第2部>

開催挨拶 広瀬敏通さん

これまでのRQとこれからのRQの違いをぜひ、理解してください

このシンポジウムは一周年にあたる3月11日にやろうと思っていたのですが、当日は現地でさまざまなセレモニーがあるため日程を前倒しして、今日開催させてもらいました。

この1年間のRQの活動と、これからのRQの活動の違いを皆さんにぜひ理解していただく、新しくRQが生まれる、ということを話していきたいと思います。

あらためて実感――甚大な災害規模地震津波放射能

あらためて伝えたいのは、この災害が恐ろしく甚大だったということです。

マグニチュード9というのは世界の歴史でも数えるほどしかありません。日本では初めてで、およそ2万人の方が亡くなり、1年経った今なお3,274人という膨大な方が行方不明です。私たちが一緒に活動させていただいた被災地の皆さんの中にも、息子あるいは父ちゃんがまだ見つからずにいる方がたくさんいて、1周年を前に葬式を挙げようと決めた方が何人もいらっしゃいます。今日も現地では、見つからない方の葬式が執り行われている、という状況があるのです。

また、90%の方が溺死したとされています。これまで私たちの知る地震災害では圧迫されて、あるいは怪我をして亡くなる方が多かったのですが、今回は津波で亡くなった方が圧倒的でした。

ただ、実際にはさまざまな亡くなり方があったものの、皆「津波」という一言で処理せざるを得なかったという事実もあったわけです。特に目を引くのは、60歳以上の方々が多かったことです。現地の60歳以上の方々の比率は35%、でも亡くなった方々の比率では65%。どれほど多くのお年を召した方が亡くなったのか、ということも、私たちは見ておきたいと思います。そしてついこの間、共同通信社が発表した「震災関連死」が1,331人。これは津波では助かり、避難所に入ったものの、その後に亡くなった方々、さまざまなストレスや障害に対して適切な対応がされずに亡くなっていった方々の数です。

つい数日前には、福島で5人の方が半径20キロ圏内の避難区域で餓死により亡くなったことが判明しました。誰もいなくなり、商店もすべて閉じて、食べるものもない中、逃げることもできずに亡くなった方々もいるのです。このような事態が今も進行中です。

阪神淡路大震災でも927人の「震災関連死」がありましたが、今回、遥かにそれを上回っています。私たちはこういう数字を見ると、どうしても感覚が麻痺します。

この数字の一つひとつにそれぞれの人生、笑顔や思い出があるということをつい忘れがちですが、膨大な人々の想いがここでなくなっていったのです。

現在も避難している方が34万人、そしてボランティアで現地に行った人がおよそ120万人と言われています。社会福祉協議会の統計では94万人ですが、RQなどの協議会以外の民間の団体はこの数に入っていないため、おおよそ110~120万人と言われています。

また、この災害は地震と津波だけではなく、膨大な「放射能」をまき散らしました。私たちが3月13日に福島の現地に入った時には、すでにメルトダウンが起きつつあったと言われています。

これまで私たちは、広島と長崎のそれぞれの原爆、第五福竜丸のビキニ環礁での米国・核実験による被ばく、これ以外は直接、放射能を被ったことはありませんでした。しかし、チェルノブイリ、スリーマイルに続いて、ついに日本でも原発が爆発してしまった。さらに重要なことは、放射能は今も流れ続けていることです。決して3月11日に終わったわけではありません。その量は、もしかすると日本の半分の人口が避難しなければならなくなるのではないか、と言われたりしています。

通常、地震は地殻のひずみを開放するときに起きますが、1年前に起きたマグニチュード9の地震は、それを遥かに上回る爆発的な地殻の変動が起きてしまったため、地震後、ひずみが高まったと考えられています。

このひずみは今までの計算式をすべてやり直さなければいけないほどのもので、首都直下地震や東海・東南海・南海地震、あるいはそれぞれの火山の噴火・爆発などがあちこちで言われるようになってきました。

2日後の3月8日、安田講堂で、これまでの地震研究の報告がされることになっています。ここで、かなりショッキングな内容が報告されるでしょうし、人々は事態の深刻さに愕然とするでしょう。同時に、これは遠い東北の出来事ではなく、日本中に関する自分事であることに恐らく気づくのではないかと思っています。

人間が生み出した原子力物質、放射能について、アメリカの原子力規制委員会は、つい昨年までは、全て人類に影響がなくなるまでには1万年かかると言っていたのを、10万年に軌道修正しました。これは次の氷河期が来てそれが終わり、次の人類がこの地球上にいる頃の話です。そんな頃まで、私たちが20世紀という時代につくってしまった放射能が影響を及ぼしてしまうのです。

これは考えてみると、大変なことです。私たちは原子力を単なる経済の問題、効率の問題、便利さの問題で語ってよいのか、ということを非常に強く感じます。

現在、国内54基の原子力発電所のうち2基が、まだ稼働中です。ひとつは柏崎刈羽原発6号機で3月10日の定期検査で停まる予定です。そして北海道の泊原発3号機、これも4月中の定期検査で停止する予定で、そうすると全54基が停まるわけです。当然これについてはさまざまな議論が巻き起こるでしょう。

その時、私たちひとり一人がどう思うか、電力が少なくなることについてどう考えていくか、自分の意見を持つ必要があると思います。

災害大国――自然現象と折り合いをつけて生きてきた日本

次に「災害大国」についてお伝えします。これまで繰り返し語ってきたことですが、日本の国土は世界のたった400分の1しかないのに、世界の大地震のおよそ4分の1が集中しているように、日本は地震大国です。この地震大国に54基もの原発がつくられました。そして海岸べりも含め、この東京を考えてもわかるように、地震に対する備えは殆どなされないという状態で、日々の生活は営まれています。

私たちは「災害大国にいる」ということを、もう一度思い出す必要があると思います。

地震だけではなく、巨大な低気圧や毎年の年中行事と化した集中豪雨など、かつては想像もしなかったものが、私たちを襲い始めています。つまり、地球の温暖化ではなく「極端化」です。極端に暑く、極端に寒く、極端に風が吹き、極端に乾く。そういう気象の変動が起きている。そしてこれらの現象に、人間の都合から見て、「災害」、「被災」という言葉を使います。つまり人間の立場から「害を被る」から被災、あるいは「災害」なのです。

私たちの祖先が、世界に1,500しかない活火山のうち108が集中し、しょっちゅうどこかで噴火し、地震がいつも起きて、そして台風もやってくるような、災害だらけのこの小さな国土から逃げ出さずにいた理由は何でしょうか。

それは言うまでもなく、この美しい四季、美しいだけでなく豊かな国土が災害によってもたらされていることを知っていたからなのです。

この自然現象を巧みに暮らしの発展に取り入れてきたのが、古来の日本人だったのでしょう。つまり、私たちは自然災害と付き合ってきた個性を持っているし、その人たちが自然災害は恵みであったと言っているわけです。

今回、多くのボランティアが、津波に流された方々の口から「これは自然現象なのだ」と繰り返し聞いています。

今、海では牡蠣やわかめの養殖が始まりました。これまで漁師さんが見たこともないような生育の良さで、海のプランクトンの数はものすごく多いそうです。これは4日前に私が南三陸町の歌津の雪の中で聞いた、伊里前契約会会長の千葉正海さんの話です。

息子の拓さんを海に潜らせたら、今までカチカチだった海の底、養殖筏などのがれきでいっぱいだった海の底がきれいになっていて、砂を手いっぱいに取ることができたというのです。これは60年前のじいちゃんたちが、ここの海で漁を始めた時と同じような状態だと……つまり私たちは60年で海の底をカチカチにしてしまったのです。じいちゃんたちの時代、1960年にはチリ津波が来ています。「60年前に戻った海を我々はもう一度カチカチにしてしまうのか、それを120年あるいは200年と長持ちさせるように使うのか……それが生き残った俺たちの仕事だ」と彼は言っていました。

本当にそういう思いを日本人は持ってきたのだと思います。

緊急性自立性専門性を持つのが災害ボランティア

釜石、いわきを合わせると、RQでは延べ4万5千人の人が活動してくれました。

当初、公設ではない避難所には物資や食糧が届かず、そこで飢えてしまった方々、寒さで亡くなった方々がたくさんいました。RQはそういうところに集中的に支援の物資を届けたのです。なぜ届けられたのかといえば、一軒一軒訪ねて行ったからです。当時、デリバリーと言われたチームの人たちは、本当に狭い崩れた道の中をかき分け、家を探し出しました。そうやって550カ所に届けたのです。

日本では、ボランティアは「無償の行為」と考えられ、そのために多くの誤解が生まれています。本来ボランティアは「自発的な行為」という意味で、私自身20代に国連ボランティアで活動していた時は自発的な行為でしたが、無償ではなく、きちんと給料をもらっていました。世界各地から来ていたボランティア団体もほとんど例外なく報酬をもらって活動していました。そして専門性はとても高かったです。

日本では、ボランティアは「タダで活動する専門性を求められない人たち」というように考えられています。しかし災害ボランティアは、日常的に活動する福祉関係のボランティアの方たちと違って、緊急性や自立性を持ち、同時に専門性もある程度要求される人たちなのです。

このように、現地で「ボランティア」という言葉がどうも宙に浮いている、という状況が1年経って見えてきました。

特に初期の緊急支援の数カ月は、乱暴に言えば、誰が行っても何をやっても受け入れられました。

でも、だんだん地域がそれぞれに自立を目指し、仕事を求め始めた中で、やることを見失っているように見えるボランティアの人は受け入れられにくくなっています。私たちは、明確な形を持って現地で動くことが求められています。

被災の現場で学ぶ――災害教育を広げ、活かす

これまで日本では「防災教育」という言葉が使われ、避難訓練などさまざまな活動が行われてきましたが、これがなかなか役に立たないというかリアリティがなく、国は数年前から体験型の防災教育を進めてきました。それでも現場で学ぶ仕組みではないため限界があることは否めません。阪神淡路大震災の頃に、現場こそ学ぶ力がある場所で、中でも被災地という現場は特別だということに気が付きました。

私は自然学校をやっていますが、自然学校の現場で何カ月も活動をしている学生たちが、神戸の被災地で1カ月活動するだけで、目に見えて成長するのです。

それは当時、随分話題になり、私は「災害教育」と呼んで注目しました。この現場の、しかも被災地が持つ「教育力」に着目して、私たちは災害教育と呼んだのです。

これは、昨年の5月頃まで皆さんによく紹介しましたが、RQで活動した宮城教育大の学生の話です。1週間、学生二人が月山神社(陸前高田市気仙町)にある避難所――60人ほどのお年寄りが身を寄せていた場所で、物資もほとんど届いていなかったところです――に泊まり込んでお手伝いをしました。

これは、彼らが泊まり込みを終えて、登米の夜ミーティングで次の人たちに引き継いだ時の言葉です。「僕が言えること、教訓としてここに残せるかもしれないこと。これは避難所のおばちゃんの言葉ですが『すべての避難所には、すべての人にはドラマがある』ということです。全ての人の一つひとつの心に、僕ら被災していない人間が量ることのできない悲劇が、深すぎる悲しみがあるということです。ただただ、あの人たちを想ってあげてください。あの人たちがして欲しいと思うことも、一生懸命考えて行動してください。目を離さないでください。愛してあげてください。そして力になってあげてください。彼らの心を何より大事にして、そして全身全霊で役に立ってください。お願いします。」

ここに書かれている言葉は、彼が一週間、月山神社で寝食を共にしたじいちゃん・ばあちゃんたちの顔を思い浮かべ、私たちに伝えてくれた言葉です。

災害教育とは

被災地で、被災者やボランティアや訪問者が、被災地や被災者の窮状に接して抱く「共感」や、利他的で貢献的な行動と感情。「自分でも何かできる」「自分も何かしなければ」とういう思いはその人を成長させるし、それは日本という災害大国に生きる者にとって、ヒューマンで災害に強い社会をつくるためにとても大事なことではないか。これを私たちは「災害教育」と呼んでいます。

この災害教育という視点から、私たちはこれからの東北の災害救援、被災地復興の活動やこれから起こるであろう災害に多くの日本人が現地に能動的に向かうための仕組みをつくっていきたいと思っています。

新しいRQが動き出します。東日本大震災は現代の日本を根底から変えていきました。

まだまだピンと来ていない人がいるかもしれませんが、この災害は阪神淡路大震災とも、中越地震とも違います。これまで私たちの世代が体験したことのないような、社会を本当に変えていく災害になりました。もちろん放射能のことも含めてです。

これまでの災害救援の範疇を超えていくことが、私たちにも求められています。

被災地に根を下ろした活動や、被災地を知るための広範な市民や子どもたちをつなぐ仕事、全国的に息の長い運動として、被災地の生活と生業を再生させていくようなことをやっていきたい。誰かがやるのではなく、ここにいる人々全ての力でやっていきたいと思っています。

専門性を持つ新組織「RQ災害教育センター」が始動

現地では、これまでRQ唐桑、RQ河北と呼んでいた団体が、地域団体化し始めています。そのための研修を12月から、つい4,5日前まで続けてきました。

これからこれらの団体に報告をしてもらいます。中心になっている登米は「RQ災害教育センター」が、コーディネーター的な役割を果たしながらつないでいきたいと思っています。「RQ災害教育センター」、名前が変わったことに気が付きましたか?「RQ市民災害救援センター」と呼んでいたボランティア団体から、ある程度専門性を持った人たちがしっかりと動けるような――最近流行の言葉で言うと「プロボノ」と呼ばれる専門性を持ったボランティアの人たち――そういう人たちがどんどん入ってこられる組織となるよう、社団法人を立ち上げました。「RQ災害教育センター」、今後予想されるさまざまな災害に立ち向かえる組織として、動いていきたいと思っています。

3月11日の一周年から、現地受け入れを再開します。各拠点はこれまでも活動してきましたが、3月中旬から下旬にかけて、対外的なボランティアの受け入れを始めます。

そしてRQは自立的で、自発的で、多様で、多彩な活動……「被災地復興支援×地域再生支援」、この2つの柱を掲げて活動を再開します。

皆さんにできること。まず、「東北に行きましょう」。官公庁は各旅行会社に被災地ツアーを呼びかけています。私たちもこれを現地で受け入れる体制をとりつつあります。ちょいボラもオーケー。とにかく被災地を自分の目で見てもらいたい。

出来る支援を始めてください。職場で、家庭で東北を話題にすることを習慣化してほしい。そして、RQやその他の支援団体とつながってください、ネットワークが出来ていきます。最後に「忘れない」ということです。春から徐々に現地ボランティア活動が再開します。

そして、これは大きな課題でもありますが、次の災害は間違いなく、恐らく近づいてきています。

1年前の3月11日、私はここで、まさに揺れるその瞬間まで研修をやっていました。全国から来ていた参加者の人たちと「救援活動をどう始めるか」と最初に話し合ったのです。まさに、先ほど言われたような状況が1年前にあったのです。そして、何とか車を手配し、2日後に現地に向かいました。

「次の災害に対して本当にどう動くのか」、日本人である限り、それは避けられない思考として来ているのだと思います。

今日は現地の活動を担う、今までも担ってきた人たちの話を聞いて、もう一度RQの、東北の被災地における前向きな活動が始まっているということをしっかりお土産に持って帰ってください。どうもありがとうございました。

(構成/富田夏子)

 

RQのホームページより転載

http://www.rq-center.jp/news/312

 

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