2012/03/29 by Matsue

村を率いて化学工場の汚染と闘った張功利

張功利氏は、数年前まではいたって普通の農民だった。しかし、汚染工場を相手に抗争を繰り広げ、話し合い、メディアを利用したり外部からの支援を受けることを学ぶうちに、全く新しい自分を発見していった。そしてついにはアカデミー賞候補にまでなったドキュメンタリー映画の主人公となったのだ。

2004年、張氏は安徽省仇崗村の村民を率い、付近の化学工場による汚染から村を守る闘いを始めた。2007年、中華系アメリカ人の映画監督ルビー・ヤン氏は、張氏と村民らの抗争についてドキュメンタリー映画の撮影を開始した。4年後、この30分の短編ドキュメンタリー「仇崗衛士」がアカデミー賞候補となり、仇崗村は全世界から注目されるようになった。

写真: 張功利氏

このドキュメンタリーは、汚染が村民にもたらした悲痛な生活と彼らの抗争を記録したものだ。最終的に工場は村から出て、数キロ離れた工業団地に移転した。張氏は「中国新聞週刊」のインタビューの中で、張氏と村民らは長い間の紆余曲折を通じてより理知的になっていった、と語っている。

5年におよぶ工場との対立の中で、村民らは伝統的な知恵と現代的な思考により、メディアを引き入れ、民間の環境団体や政府の力を借り、法律を利用し、請願と圧力を加えることで自分の権利を守ることを学んだ。同時に畑仕事もおろそかにしなかった。

「ここで生まれることはある意味で悲劇だ」

仇崗村は、地図で見ると安徽省蚌埠市にある小さな点でしかなく、気をつけないと見過ごしてしまう。もし付近の化学工場による土地の汚染がなければ、張氏やその他の仇崗村の人々は、中国のごく普通の農民と同じように毎年田畑を耕すことを繰り返していただろう。

2004年、仇崗村の約71,000平米の土地に九采羅化学工場が建設された。化学工場の前身は30年以上も好景気が続いた国営蚌埠市農薬工場だった。

蚌埠のような古い工業都市では、適切な土地利用計画が行われなかったため、村が大きくなるにつれて、付近に位置していた農薬工場は村の住居にとり囲まれてしまった。

その後農薬工場は倒産し、何度か売り渡された後に化学工場となった。そして種々の化学品を生産するこの大型化学工場によって、仇崗村の人々は未曾有の災難を被ることになったのだ。

工場の生産が始まるたびに、工場からの廃ガスが風に漂い、鼻につく刺激臭のせいで村民は窓を閉めて屋内にこもるしかなかった。「屋外で話をするなんて、とてもできませんでした」。2011年に取材を受けた際にも、張氏の家の戸の隙間には当時密封用に取り付けらたゴムが残っていた。村民らは窓や扉の隙間をゴムで密封し、悪臭が入るのを防ごうとしたのだ。長いこと仇崗村の人々は、他の村のように中庭で涼みながら食事をすることができなかったのだ。

さらにひどいことに、工場は未処理の汚水を直接排出していた。汚水は用水路を通じて田畑や養殖池に入りこみ、村の中を流れる小さな鲍家水路を経て、数キロにおよぶ曲がりくねった黒い水となって淮河に流れ込んだ。廃水は徐々に地下水にも浸透し、深さ数百メートルの井戸を掘っても汲みとれるものは「半分は水、半分は化学薬品」だった。

2005年7月、工場の廃水は仇崗小学校に流れ込んだ。生徒はマスクをつけて授業を受け、水が引いたあとには木が次々と枯れていった。村民によれば、家が汚水に浸かることもよくあり、「犬でさえ汚水が鼻に入らないよう、つま先立ちをして歩いていた」。

数年の間、村民らは何度か工場に汚染の賠償を求めたが、その結果殴られた人も少なからずいた。

写真: 仇崗村

「私達は追いつめられていました。ここに生まれることは悲劇だと感じていました」。張氏も直接の被害者だった。自宅は工場近くにあり、家の戸口からすぐそばに今はもう煙の出ない高い煙突が立っている。この煙突は多くの村人より長い年月をここに立っているのだ。

張氏の約270平米の自作用農地にも頻繁に汚染が流れこみ、苗は化学品によって焼かれてしまった。工場との交渉が失敗に終わると、張氏は工場を相手に訴訟を起こした。当時は「法廷は理屈の通るところだろう」と思っていたのだ。

周りの人は「やめておけ。金持ちを相手にすれば、何をされるかわからない」と忠告した。
張氏は しばらく考えた後家族に説明し、「命をかけて行動する。リスクはつきものだ」と決心した。

法廷に出た張氏は、「弁護士を言い負かすことはできない」ことがすぐに分かった。張氏は、証拠や手続き、化学分析結果を求められ、問題にぶち当たってばかりだった。それに対し工場は、生産許可証や「先進企業」の表彰状、「無汚染企業」等の様々な証書を次々に提示してきた。 「工場は市内では大口納税者ですから、勝てるわけがありません。私のほうこそが非合法と見なされました」

初めての裁判から戻った夜、張氏は全然眠れなかった。「またやり直せばよい」証拠がないと言われた張氏は、自腹を切ってカメラを買い、写真をたくさん撮った。これらの写真が後に大切な役割を果たすことになる。さらに、中卒でしかなかった彼は本屋に通って法律や政策に関する様々な書籍を買い、毎晩数ページずつ読んだ。張氏は出廷しながら法律を学び、弁護士といかにコミュニケーションを取るかを学んでいった。

張氏の環境保護戦争はこのようにして始まったのだ。

闘いは賠償のためだけではない

2004年と2005年の二度にわたる裁判にもかかわらず、工場は汚染を続けていた。

当時、多くの村民は賠償の望みはないと思い、訴訟にも関心を持っていなかった。張氏が一人で工場と闘っていることも多かったのだ。

しかし、力も仲間も不足していた張氏は、訴訟を通して学習し、法廷でのミスを振り返って研究した。さらに、起訴と訴訟の取り下げにかかる費用は、張氏にとっては一回当たり400元だが、工場にとっては弁護士を雇ったり、それこれ1万元ほどかかる。張氏はやむなく「訴訟ゴロ」となったのだ。

同時に仇崗村は息がつまりかけていた。村では突発的なガン患者が増え続け、2004年から2006年の3年間に50人もがガンで亡くなり、多くがまだ中年の村民だった。

90歳を超える村の年長者の王宗英さんは、ガンで死亡した村民の数を記録している。村で病死があるたびに、自宅の古びた壁の上に心を痛めつつ太線を記し、今では54本の線が引かれている。

張氏は、政策について調べているうちに、2004年に胡錦濤主席が演説の中で、環境を汚染する者は厳罰に処すると、語っていたことを知った。張氏はこれに勇気づけられ、村民にもはっぱをかけ、一人ひとりが立ち上がって工場に体当たりしよう、と呼びかけた。胡錦濤主席も味方をしてくれているのだから恐れることはない、と語りかけたのだ。後に張氏は「中国新聞週刊」の記者に「これが政治的に正しいという事だ」と語っている。

張氏は法律を学んでいくうちに、工場のなにが違法なのかを理解していった。例えば中国では住宅の1,000メートル以内で危険化学品の生産を行うことは禁止されており、仇崗村のすぐそばにあるその工場は明らかに違法だった。「どんな大企業であっても法律は守らなければいけませんよね」

法律を学んだことは張氏にとってここ数年で最も大きな収穫だった。

張氏の自宅の家具は古ぼけたものばかりだが、法律に関する種々の書籍はみな新品だ。「環境保護グリーンブック」、「弁護士ダイジェスト」、「憲法の精神」、「中国の大衆レベルにおける民主的権利の発展に関する報告」、「海外における市民参加と立法」、食品や選挙に関する本や、その他様々な分野の法律についての書籍があり、張氏は全てに目を通している。

法律に関する書物を多く読むようになってから、張氏の行動は変わった。「法律に照らして行動すれば、自分を守ることもできるし、目的を達成することもできる。」これが張氏が得た結論だ。

張氏は次第に、賠償金を勝ち取ることが大切なのではなく、生命の権利を守ることこそが本当の目的だと考えるようになった。「賠償金には限りがあります。命や子孫こそが尊いのです」

張氏をはじめとする村民は、先祖代々仇崗村で暮らしており、淮河の遊水地として、洪水に長年影響を受けてきたにもかかわらずこの土地に留まってきた。にもかかわらず今、村では絶えず人が病気になり死んでいっている。「これは、今までになかった重大な出来事です」

法律も政治も大切

転換点の多くは、偶然に、そして思いがけないときに突然現れるものだ。

2006年、淮河の水質に関する調査研究の一環として、安徽省のNGO「緑満江淮」のボランティアチームが仇崗村を訪れ、工場に隣接する村と張氏について初めて知った。

張氏は環境政策や法律を独学で勉強してはいたものの、NGOについては全く知識を持っていなかった。第一印象は、村の汚染問題に関心を持ってくれた熱心な大学生、ぐらいのものだった。当時張氏は、大学生に対し「急進的で、言いたいことを言い、是非をはっきり見分けることができ、公明正大な話をする」という印象を持っていたのだ。

後になってそれほど急進的でもないことがわかるのだが、彼らは確かに大きな力になってくれた。

工場との闘いを初めてから大学生ボランティアが現れるまでの数年間、張氏や村民らは工場が何を生産しているのかを知らなかった。「工場で働いている村民さえ何を生産しているのか知らず、自分が担当している部分の工程しか知らなかった。」

大学生らは、ネットから工場の製品についての情報を得て、化学成分と人体への危害について調べてくれた。

彼らが提供してくれたのは、化学の知識だけでなく、権利擁護のための一連の理念と方法だった。

大学生らは、対立を激化させず、穏やかに法律と政治のルールに従って解決すべきだと張氏と村民にアドバイスした。その後、村民らはより理性的に権利擁護活動を行うようになったのだ。

「緑満江淮」の学生ボランティア達が、仇崗小学校の生徒に現地の環境について作文を書かせたところ、40人の生徒全員が汚染に対する抗議文を書いた。作文は環境保護局に送られ、これがメディアに取り上げられた。その後、村民は「緑満江淮」とともに汚染の証拠を集め、メディアの取材も受けるようになった。多くのメディアが注目するようになると、現地の政府にも圧力がかかりはじめた。

環境保護団体やメディアと関わるようになり、張氏は名声が高まった。「緑満江淮」の手助けにより、張氏は6回にわたって北京に赴き、官僚、学者や環境保護の専門家が参加する環境保護フォーラムに参加した。このことは、工場との闘争に決定的な影響を与えた。

張氏は、初めて北京に行った時にNGOという三文字が持つ意味を知った。会議でより多くの環境保護に関する知識や国外の事例を学び、市民が情報公開を要請する権利を持ち、環境保護局にデータ公開を求めることができることを知った。

知識を得ただけでなく、自分と同じような人々と知り合い、経験を分かち合うことができた。福建省や河南省などで環境権利擁護の活動をしている人々だ。

会議は張氏の視界を大きく広げ、彼を変えた。村に戻った張氏は、会議で得た資源を利用し、よりよく権利擁護活動が行えるようにしたのだ。当局を再び訪れた際には、役人に北京での会議について説明し、政府の高官や学者、メディアの要人を含む会議参加者リストやもらった名刺の束を見せることも忘れなかった。

また張氏は、工場に関するデータの公開を政府に要請した。「ニセのデータであっても提供してください。ニセであることが確認された場合にはそのときまたあなたの責任を追求しに来ます」。官僚相手にこのように語る張氏は、もうまるで環境保護のプロだった。

環境保護局は、工場を閉鎖することを張氏に約束した。

「新しい自分」

2007年、国の環境保護部は工業汚染抑制のため流域別に工業施設の審査・承認制限を行う制度を導入し、蚌埠市も制限対象に定められた。同年6月、仇崗村の化学工場は当局から生産停止命令を受けた。

しかし、工場はひそかに生産を続けていたことがわかった。昼間は汚水が排出できないため、深夜村民が寝静まったときに排出し、水門には監視人をつけたのだ。

2007年夏、村民は村をあげて募金活動を行った。「我々はお金を寄付してでも工場に別の製品を生産してほしい」と訴えたのだ。同時に張氏は市長に手紙を出し、これら汚染企業を必ず閉鎖させるよう要求した。村民1,876人の連帯署名を呼びかけると、村民同志の口コミで1,801人の署名を集めるのにわずか10日間しか掛らなかった。

署名集めを終えた晩、張氏の自宅のガラスが何者かにレンガを投げつけられた。さらに真夜中には家の外で誰かが銃を発射して脅しをかけた。次の日村民らは、「悪質な勢力を阻止するよう政府に要求する」という横断幕をつくった。

中華系アメリカ人のルビー・ヤン監督が村に到着し、ドキュメンタリーの撮影を始めたのはこのときだった。

署名集めを終えた晩、張氏の自宅のガラスが何者かにレンガを投げつけられた。さらに真夜中には家の外で誰かが銃を発射して脅しをかけた。次の日村民らは、「悪質な勢力を阻止するよう政府に要求する」という横断幕をつくった。

中華系アメリカ人のルビー・ヤン監督が村に到着し、ドキュメンタリーの撮影を始めたのはこのときだった。

2007年11月のはじめ、工場は初めて張氏と連絡をとり、「平和な話し合い」を約束した。このとき、張氏は話し合いの様子を撮影するよう強く要求した。2007年末、工場はついに操業停止した。村民らの経済的損失に対して賠償が行われ、張氏ら村民の環境保護闘争に終止符が打たれたかのように見えた。

しかし喜びは長続きしなかった。2008年の前半、工場は、政府の同意を経て正式に生産を再開すると告知した。村の人々は再び挫折を味わった。

「私達は怒りの余り、過激な行動に出ました」。村は、壮健な村人を集めて政府の建物の前で横断幕をはって抗議した。張氏はリーダーだった。

このとき政府は、工場は2008年12月20日までに移転することが決まっている、という文書を張氏に見せた。

この頃、張氏は工場から脅迫を受けるようになった。自転車で豚の飼料を集めに行くと、工場主が自動車で跡をつけてきて、「我々を追い詰めれば、何をするかわからないぞ」と脅された。

11月になっても工場は移転する気配がないどころか、設備の保守を行い再起を図っているかのようだった。

このため村民は募金を集め始めた。目的は、当局を訪問する際の交通費と、工場が移転した暁に市の環境局に祝いの意を表わす旗をプレゼントすることだ。張氏は、募金は一人当たり30元以下と決めた。できるだけ多くの人に参加してもらって勢いをつけるためだ。

「国の規定では5人以内なら陳情ではなく、催促だ」。(訳注: 中国では、5人を超えるグループが政府に出向いて陳情・直訴を繰り返すと違法行為と見なされる可能性がある。)移転期限まであと5日の12月15日、村民による「催促」の頻度はピークに達した。

その結果、市の環境保護局長は自ら張氏と話し合い、「良好な環境を皆さんにお返しする。できなかった場合には辞職する」と約束した。さらに、旗は送らないようにと村民達に言いふくめた。「皆さんに長年つらい思いをさせてきたことを申し訳なく思う」と局長は言った。話し合いの中で、市内では多数の工場を閉鎖しなければならないため、市の経済情況が大きな打撃を受けていることを張氏は知った。

2009年4月5日、市政府は、九采羅化学工場を含む汚染企業はただちに10数キロ離れた工業団地に移転する旨の文書を公布した。

仇崗村の人々の悪夢は終わった。工場移転の全過程を張氏はビデオカメラで記録した。

これはもう単純な環境保全運動ではない。ドキュメンタリー「仇崗衛士」にあるように「一人の農民が新しい自分を発見」した過程でもあるのだ。

中国新聞ネット(2011年6月17日)に掲載された「村民と汚染工場の5年におよぶ対立に、NGOが介入し権利擁護をサポート」 (筆者 龐清輝)より編集・転載

http://www.people.com.cn/h/2011/0617/c25408-2037719269.html 

写真提供: 緑満江淮 周翔

編集: 李君暉
翻訳: A.K
校正: 松江直子

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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