2011/11/25 by Matsue

公益と社会的企業-五斉人文教育機構 張芳

社会的企業という言葉を初めて耳にしたのは、海外から帰国したある教師の話を聞いたときだった。彼は、私が自分の学校や考えについて紹介したのを聞き終えてから、アメリカ・デトロイト市の社会的企業について話してくれた。2003年のことだった。その後、2005年前半に至るまで、国内で数多く出版されている新聞や雑誌の中で、社会的企業や社会起業家という言葉を目にする機会は非常に少なく、インターネット上でも、関連する情報を探し当てるのは難しかった。国内の出版物の中で初めて社会的企業という言葉を見かけたのは、確か「中国企業家」という雑誌に載っていた湯敏氏が書いた記事の中だったように記憶している。

さらにその後、呉士宏女史が翻訳した2冊の本-『貧しい人々の銀行家』(訳注:邦訳書タイトル『ムハマド・ユヌス自伝-貧困なき世界をめざす銀行家』)、『どのように世界を変えるか』(邦訳書タイトル『世界を変える人たち―社会起業家たちの勇気とアイデアの力』)-では、社会的企業のことが余すところなく述べられていた。その後、社会的企業という言葉は、雨後の筍のようにあふれ出してきた。現在では、インターネット上でこの言葉を入力すれば、既にどこでも目にすることができるようになった。

幸運なことに、私は、社会的企業代表団の一員として招待されて日本に行き、日本の社会的企業を見学したり、また彼らと交流することができた。代表団の参加者はみな、この分野で仕事をしている人か、この分野に関心を持っている人であった。日本の社会的企業と交流をしているとき、同業者である彼らが最も多く質問していたのは、社会的企業の組織構成と経営モデル、利益配分モデルで、理想や創業の動機について尋ねることは非常に少ないということに気付いた。私も彼らの気持ちはよく分かる。ただ、それと同時に、社会的企業に携わる人々がより関心を持っているのは、自身の創業の動機と結果、理想と熱い思いであり、組織の経営や利益はあくでも方法、プロセスであって、最終的な関心事ではないということも、私は知っている。

日本から帰国してきたのち、またしても非常に幸運なことに、You Change(友成基金会)が開催した「海外から帰国して語る社会的企業」という座談会に参加できた。座談会では、国内の法学、経済学分野の大学の先生方による社会的企業の定義や社会的企業に対する疑問などを再び拝聴することができた。また、会には、公益という分野で多忙にしているアメリカやイギリス、香港などの専門家や実践者の方々も参加していた。座談会での交流や議論を通じて、ついに私は、社会的企業に関する自分自身の定義を持つにいたった。以下では、まず今日の社会における社会的企業に対する認識と定義について話したのち、私自身の考え方について話してみたい。

社会的企業とはなにか?これは、英語のSocial enterpriseを直訳したものである。まず欧米で現れたのち、現在では多くの国・地域に同様の組織が存在している。アジアでは、シンガポール、韓国、日本、中国本土、台湾、香港などに存在している。国・地域、あるいは社会階層により、社会的企業に対する態度はやや異なる。例えば、香港の場合、政府は社会的企業をたいへん奨励しており、社会的企業が社会福祉に関する問題についてより多くの責任を負うよう望んですらいる。また、日本政府の場合、社会的企業に対する態度はあまり明らかではないが、これに対して韓国政府の場合は、おととしに社会的企業に関する法規を公布した。欧米などの西洋諸国にも関連する法規はあるものの、地域の政策・法規は、必ずしも全て同一というわけではない。みなの関心が非常に高い利益分配の問題に関しては、国・地域により見解が異なる。このため、確立した指標あるいは定量的な示し方としては、これまでのところ統一された見解はひとつもない。

しかし、社会的企業には、共通のゆるやかな指標があるはずである。すなわち、社会的企業の創始者の目的は、とても善良で素晴らしい願い-世界がますますよいものになってほしいという願い-であるはずだ。これは、社会的企業と伝統的な企業とを区別できる唯一の共通性といえるはずだ。ただ、これは、最も評価が難しい。人の心の中の世界での考え方で、目に見えず、触ることもできない、説明のできないものである。男女の恋愛に似て、心での反応に頼ることしかできないかもしれない。相手の自分への愛が真実のものであると、どのようにして知ることができるだろう?どのようにして定量化できるだろう?ただ、当事者自身の心の反応に頼るしかない。

愛ですら変化しうるのだから、(社会的企業に関しても)このようなケースもあるはずだ。恋愛をはじめた当初は、相手のために自分の命も犠牲にできるだろう。しかし、その後好きな相手が変わることもあるはずだ。さて、話を社会的企業に戻すと、創始者の創立当初のよい目的は、時が経つにつれ、生活のプレッシャーや事業自体の難しさ、ひいては名誉や利益という誘惑、なんらかの脅威のもとで、この自分の初志を貫徹することができるだろうか?こればかりは、墓場に入ったのちにはじめて決められることだろう。

社会的企業についての私の定義はこうだ。すなわち、公益事業(すべての公益事業の集合体)という領域において、伝統的な慈善事業とは区別され、伝統的な企業の経営モデルを加えた事業体が社会的企業である。つまり、公益性を保ちつつ、効率向上を促進する要素を加えた事業体である。重要なのは、どのように中国本土の社会的企業の公益性の線引きをするかという問題について、利益を配分するかどうかという観点からだけではなく、この事業体が社会の進歩のために創り出す富(金銭的な富だけではなく、精神的な富も含む)という観点から考えるということだ。

ひとつの事業体が社会的企業であるかどうかの定義付けを、なぜしなければならないのだろうか?社会的企業の公益性は社会の理解と支持を得ることができ、事業体の活動の発展に有利である。そして参入してくる事業体がみな獲得したいのはより多くの支持であり、質疑や説明ではない。さらに、公益を支持したいと考える法人や個人の最終目的もまた、社会の進歩に対するある事業体の貢献と意義であるはずだ。中国では、ひとつの新しい存在が誕生したばかりの時、当然、関連する法規はまだ追いつかず、存在しえない。物事の客観的な法則に基づいてみると、数年後、新しい存在は絶えず成熟し、社会にもたらす効果が明らかになる。そのときには、必ずや関連する法律が公布されるだろう。

ともすると、まさに現在のこれら社会的企業が法律の制定に素材や事例を提供しているのかもしれない。ただ、現在のところ、詳細な法律法規のサポートがない以上、これは現在の社会的企業が直面する最大の困難かもしれない。加えて、中国の現在の社会・文化(人と人の間の信頼感が十分に強くない)もある。社会的企業に携わる人々は、他の企業が直面するあらゆる問題に直面するだけではなく、社会の不信という問題にも絶えず直面しうる。これは、社会的企業に携わるうえでの試練でもある。幸いなことに、現在では、社会的企業をサポートするタイプの組織が現れている。社会のある問題を解決するための効果という観点からこうした事業体を評価・分析し、新しく生まれた存在に対してより寛容であることは、現在の「社会的企業」にとって非常に大きな支援になると、私は思う。

社会的企業が成功するかしないかは、社会的企業の概念がもはや存在しなくなるかどうかにより決まるだろう。社会的企業はひとつの枠におけるはみ出し的存在であり、いまは西欧の概念を借用している。これは、ただ伝統的な公益事業と区別するだけのためで、これらまとまりのない各種の公益事業体をまとめあげて、みなで交流し、互いに学び、参考とするために用いられている。そして、社会の公益事業の支援者たちが自分たちの支援する目標のために用いている単語というだけのことだ。それでは、最後に問おう。社会的企業とはなにか?社会的企業は何ものでもない。この概念がその使命を果たしたのち、何ものでもなくなる。この功徳がすでに十分に果たされ、最後に残されているのは、良いふるさと、そして良い社会なのだ!

同じ仕事に携わる仲間と後に続く人たちに対するアドバイス
地に足をつけて堅実に仕事をし、自身を崇高な存在としてはならず、ひとつひとつの組織と人を尊重しよう。
たえず学び続け、自身の総合的な知識と素質を高めよう。他者と社会を助けたいというこの善良で良い願望を抱いたら、さらによく学び、自身の問題解決能力を高めよう。不平をこぼさないという姿勢を貫き、政府や他者に混乱をもたらさないようにし、コミュニケーションにより問題を解決する姿勢を守ろう。
もしほかの社会的企業の経営モデルについて知りたい、もしくは学びたい場合は、その方法に注意し、社会的企業の企業としての性格を大事にしよう。
信じるんだ、善良な信仰は知恵をもたらす。

最後に一言:よく生き、意義あることをしよう!

作者:五齐人文教育机构  张芳

以下のGLIサイトより翻訳して転載
http://glichina.blogbus.com/logs/165080096.html
翻訳:三浦祐介
校正:松江直子

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