2011/11/16 by Matsue

【康雪】東日本大震災被災地を中国環境NGOが訪問(2)―ENVIROASIAより

 大自然のエネルギーがどれほど巨大なのか、私たちには想像し難い。

 宮城県に向かう道中、最も多く目にしたのは水田だった。稲穂はまさに実りつつあり、マスクを付けた人や仰々しいいでたちの人はいなかった。ただ時折、屋根にブルーシートをかけられた家があった。地震のときに壊れたのだ。それでも、人々は静かに和やかに暮らしていると感じられた。しかし、車が海辺に近づくにつれ、道沿いの家のようすは恐ろしいものに変わっていった。「十室九空」(訳注:人々が大量死もしくは逃亡したあとの荒涼とした様子)という言葉が頭に浮かんだ。それらの家はすでに打ち捨てられ、崩れ落ち、1階は津波に流され、2階だけになった家もあった。

このホールにかつては命があふれていた

 伊勢さんは、山元町立山下第二小学校へ私たちを案内してくれた。人っ子一人いないホールに佇み、今はまさに新学期であることに思い至り、もとはあまり好きではなかった学校の騒がしさを強烈に懐かしく思った。学校の騒がしさこそが、学校のあるべき正常な状態であることを、今初めて意識したのだった。学校は、幼い、喜びに満ちた生命が集まる場所。しかし私たちの目の前にあるのは、生命のない、廃棄された建造物だった。

 それでも私は、生徒と先生たちの日々のさまざまな名残を見つけた。階段には、1段目にりんごが1つ、2段目には2つ、3段目には3つ、描かれていた。10段目には10個で1箱になり、それからまたりんごが11個、12個・・・・・・。先生たちはなんと細やかな心配りで数というものを教えていたことか!教室内に掛けられていた時計の針は、津波が発生した時刻14時46分で止まっていた。これを見た人は誰でも無言の恐ろしさ感じるだろう。  

 2階のベランダで、伊勢さんは程近い海辺の防波堤と高い木の茂る林を指差して言った。「ここの人たちは防波堤の内側に沢山の木を植えました。木は大きく育って、美しい風景を作り出し、養老院がここに建てられたのです。あのきれいな色の平屋が養老院です。そこで暮らしていたお年寄りと、美しい風景に引かれて休暇を過ごしに訪れていた若い人たちは、ほとんど津波に呑まれました」。伊勢さんによれば、この地は1000年前にも津波に襲われていたが、人々はその記憶をとうの昔に忘れ、次第に海の近くに住むようになっていった・・・・・。大自然は再び、無情なやり方で人々を戒めた。この大災害ののち、このあたりの海辺は、すでに居住禁止となった。人々は海がその威力を示したときのために、海辺から一定程度の土地を明け渡すことになるだろう。

大自然のエネルギーがどれほど巨大なのか、私たちには想像し難い。「これは何だか判りますか?」洪石峰は、浮き上がってしまったマンホールの高さを人々に告げた。

 もし伊勢さんの説明がなければ、私はこれがマンホールだとは、永遠にわからなかっただろう!地震により、こんな高さまで地面から浮き上ったしまったのだ。マンホールが壊れてしまったため、住民たちは下水道が使えない。全てが修復されるまでには、6年の歳月が必要だという。時間がかかるわけは、工事が大規模という理由だけではない。より重要な理由は、被災地の労働力不足だ。修理が必要な家や墓地が多すぎて、いつまで待てば順番が回ってくるのか、誰にもわからない。被災地の生活再建には、長い時間がかかるだろう。そしてそれは、私たちには想像もできないような困難に満ちたものとなるだろう。

 被災地での2日目、伊勢さんは私たちを松島市の民間の高齢者グループホームに連れていってくれた。はじめて被災地の一般家庭にお邪魔したのだ。理事長の伊藤寿美子さんは、玄関の上部を指差し、この高さまで津波の水が来たのだと語った。その日は、一日中そうやって水が来た高さを見る動作を繰り返し、時には2階においても同じように上を見上げた。そこからも、津波がやってきたときの恐ろしさを知ることができた。しかしながら、実際にそこに身をおいていた人々、特に高齢の入居者は、どのように耐えたのか。

 伊藤さんは言う。ここには34人の入居者と、ほぼ同じ数のスタッフがいた。地震発生後、伊藤さんは学校に孫を迎えにいこうとしたら、門の外に波が迫っていたのですぐに逃げた。地面より高くなっている鉄道の線路が第二の防波堤となって、彼女たちを救ってくれたのだ。しかし目の前の水の中に流されてきた人を見つけても、助けることができなかった。自分も恐ろしい思いをしたのに、人からも責められる。生き残っただけでも大変だったのに、災害後の生活はさらに厳しい。3回の余震からも生き延びた入居者たちの表情は疲れ果て、無表情になっていた。

 つらい経験をした彼らは夜もよく眠れないという。伊藤さんは入居者たちの様子に胸を痛めるが、今はまだ、経営者として、より安全な住処と基本的な食事の確保などの具体的な仕事に心血を注いでいる。今の辛さをあまり話したくないのか、伊藤さんは私たちに沢山のアルバムや切抜き帳を見せた。そこには、災害発生後4日間の生活が細かく記録されていた。たとえば、壊れたグループホームが、全国から集まったボランティアにより段々と修復されていく様子。毎日違う人が作業をし、少しずつきれいになっていく。しかし、ここが今でも修復中であることは、容易に見出せる。たとえば私たちが座って話しをしているこの大きなテーブルは、それぞれ違ったデザインの4つのテーブルをくっつけたものだ。私はそれぞれどこから来たものなのか、もとの家はなくなってしまったのか、とは聞かなかった。となりの部屋は、屋根の下に木の枠組みがあるだけで、床板がなく、地面が見えていた。修理の順番待ちなのだ。

 ある部屋はあきらかに入居者の部屋だったとわかったが、車椅子がまとめて置かれていた。2階には、ボランティアたちが泊まっていた。入居者たちは現在、ホームの向かいにある伊藤さんの息子さんの家で暮らしている。将来大地震が来ると言われていた中、昨年新築したその家は非常に堅牢に作られており、土台は地面より80センチ高い。私たちが伺ったとき、みなさんのほとんどは大きなテーブルを囲んで座り、手工芸をしていた。隣にいたお年寄りには、ひとりの専従スタッフがついて世話していた。みなさんは私たちを歌でもてなしてくれた。歌詞は中国の養生の歌のようなものだった。

 家の前の庭には、草花が大いに茂っていたことに私は殊更興味をひかれた。さまざまな大きさと色合いの花は、人々に生活を再建するという希望を与え、大災害のあとの傷つきやすい心の慰めとなっただろう。最も印象深かったのは、伊藤さんだ。彼女は、自分はお年寄りの世話をする仕事が好きなのだと言う。伊藤さんが無事に災害後の生活を切り抜け、できるだけ早く再建を果たされるよう、遠い北京からお祈り申し上げる。 
 

日中韓3言語環境情報サイトENVIROASIAより転載
http://www.enviroasia.info/news/news_detail.php3/C11092801J

日付 2011-09-28
筆者 康 雪 (KANG, Xue)
媒体 寄稿
団体名 自然の友
(Friends of Nature)
URL http://www.fon.org.cn/
翻訳者 中文和訳チームC班 松江直子

 

 

 

 

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