2009/09/08 by GLI Japan

彼らの14年間-『東方企業家』特別報道

GLIがETIC.、SVP東京と共に2009年1月に行った「社会起業家のコミュニティ再生における役割」ワークショップに参加された『東方企業家』の王国慧さんによる訪日交流活動報告の第二部を、同誌2009年4月号より転載してご紹介します。・・・・・・・・・・・・

阪神大震災は多くの人の人生を変えた。彼らの新しい人生の中で浮かんできたのは、新しい市民社会とNPO時代にほかならない。

すべての人はまるで土地のようである。「復興」は過去に戻るためではなく、もっと望ましい未来を創るために行われる。

地震は一瞬にしてすべての人間を運命共同体の中に追い込んだ。まるで悲劇のクライマックスを体験するように。しかし家の立て直しは根気と時間を要する当事者の生活そのもの--人生の断裂を縫い合わせるのは、往々にして鉄筋コンクリートの工事よりもずっと難しいが。

ある意味では、阪神大震災は多かれ少なかれすべての日本人の生活を切り裂いた。まるで村上春樹の小説『神の子はみな踊 る』に出てくる関係がなさそうな登場人物たちの人生のように、静かに流れているように見えても、奥深くで渦巻いている。深く傷ついた心はどうすれば生き返 るのか。メディアが盛んに取り上げる兵庫県の復興計画「フェニックス計画」が新しい都市を創り上げるためのものだとすれば、その都市に命を吹き込む普通の 人々を立ち直らせることは、まさに社会起業家たちがこつこつと追い求める目標である。

発想転換が得意な太郎

「地震はもちろん悲しい。しかし、十年後に人々が直面するかもしれない社会を今見せてくれる」

主役:田村太郎

肩書き:NPO法人多文化共生センター 代表理事

役の変化:ビデオレンタル店店員(震災前)-草の根NGOの創始者(震災中)-社会起業家(震災後)

「恥ずかしいけど、僕は今でもこれらの展示を見ることはできない」。人と防災未来センターの「震災体験」を欠席した田 村は私に欠席の理由を説明した。14年前彼が暮らした地域は最もひどい被災地ではなかったものの、恐怖の記憶は時間とともに薄れることはなかった。「すべ ての人の被害が同じだったわけではない」、田村は地図を指さしながら、「ここには多くの独居老人、障がい者と外国人が暮らしていた。私の叔母もここに住ん でいた。この地域では174名の外国人が亡くなられた。うち44名は中国人」、と語ってくれた。

地震前の田村氏はビデオレンタル店で店員をしていた。お客さんの多くは外国人だった。神戸は日本でも最も西洋化された 街で、当時の外国人の比率はすでに常住人口の4%を占め、うち2万人近くは日本語を理解しない人だった。地震発生時、多くの外国人が店に駆け込んで助けを 求めた。田村は「外国人地震情報センター」を設立し、電話通訳の方法で地震情報を伝えた。緊急救援の段階が終了した後、助けられた後短時間で死亡した人の うち、独居老人、障がい者と外国人という3種類のグループが占める割合が高いことに気づいた。「彼らの多くは老朽化した家屋に住み、最もひどく被災してお り、生活面も精神面も回復が難しい」。田村は情報センターを「多文化共生センター」に拡充し、彼らに対して復興支援を行い、「声なき者たち」の声を伝え続 けた。

復興計画は草の根NGOから広く注目され、田村も1997年に設立された神戸復興塾のネット論壇に参加した。復興は 10年先に進むことを意味するのかそれとも10年前に戻ることを意味するのか。この「発想転換クイズ」に似た問題は、まさに震災後に露わになった社会問題 にぴったりあてはまる。高齢化、安全ではない都市計画、財政赤字と官僚体質。「政府だけに頼っていては複雑な社会問題を解決できない」。草の根組織は再び 行動を起こし、市民による政府との対話、政策の決定への参与を呼びかけた。関西地域の既存の民間団体も「それぞれ自分のことだけをやるのではなく、団結し て大きな流れを作ろう」とした。

各界のサポートを得て、日本政府は1998年にようやく「特定非営利活動促進法」(NPO法)を公布し、民間で長年努 力してきた社会企業はやっと発展するための法的環境を手に入れた。地方政府も徐々にNPOが社会問題の解決で発揮する独自の優位性を認識するようになり、 NPOと協働して公共事業のプロジェクトを実施し、インキュベート機能の提供や創業資金の供給などサポートを開始した。現在日本ではNPO法人に登録して いる団体は36800を超えた。

「この十数年の発展には、失敗した面もある。たとえば政府はサポートにおいて量を重んじ、質を顧みなかった点」。田村 は現在青年社会起業家を発掘するためのビジネスプランコンテストを主催している。「大事なのはイノベーションであり、インキュベーションではない。今はイ ンキュベート組織が多すぎて、本当の意味で創造的な行動と組織はそれほど多くない。中国ではこのようなことがないことを祈っている」。

「満足しない」奥様

「このようなきっかけがあったので、市民は自ら成長し、自分たちの力で地域作りができるようになった」。

主役:森 綾子

肩書き:宝塚NPOセンター事務局長

役の変化:主婦、ボランティア(震災前)-ボランティアコーディネートの責任者(震災中)-社会起業家(震災後)

「私は31歳からボランティアをはじめ、今年で61歳」。上品な雰囲気を漂わせる森女史はかつて典型的な家庭の主婦 であった。彼女はまず10年間ボランティアをやったが、「満足できない」ため、さらに7年間、ボランティア・コーディネーターを務めた。その次に訪れた阪 神大震災は、さらに彼女の多くの「不満足」を引き起こし、徹底的に彼女の思考回路を変えた。

主な被災地ではなかったものの、当時はやはり5万名を超えるボランティアが宝塚に救援に来た。森女史は救援ボランティ アセンターでコーディネーターを担当したが、一ヶ月の間に7キロもやせたという。「そのときすでに私たちには分かっていた。最も大事な力は外来のボラン ティアではなく、地元のボランティアと住民による自助互助サービスだと言うことを。そのため救援ボランティアセンターは震災発生後40日で正式に解散し た」。もちろんボランティア活動がそれで終わったわけではない。震災後一年の間に138万人のボランティアが復興に携わり、1995年は日本の「ボラン ティア元年」と呼ばれた。

もともと、日本のボランティア活動はすでに1960年代から始まっていた。70年代になると、主力は大学生から森女史 のような家庭の主婦へと変わった。政府による福祉事業振興策によって(1973年は「福祉元年」と呼ばれている)、当時のボランティア活動は基本的には政 府主導の下で、福祉分野における「奉仕活動」にとどまっていた。それは阪神大震災時に噴出した自主的で多様な「市民活動」とは大きく異なっていた。

森女史はもはや過去の生活をそのまま続けることはできないと思った。「震災は多くの問題を露わにした。一つは市民同士 の互助の精神が欠けていたこと、二つ目は、それまでのボランティア活動の内容は単一で、多様なニーズに対応できないだけではなく、専門性とリーダーシップ が欠けていたこと、三つ目は、市民とボランティアには決定権がないため、行動力が大いに損なわれていたこと」。さらに深刻なのは、震災前の「大企業や大政 府が社会問題を解決する」という保守的な思考回路に飼い慣らされた市民は、自分たちで何かをやり遂げられることを知らない。このような状況を受けて、市民 のキャパシティ・ビルディングこそが地域再生の土台であり、地元に根ざしたコミュニティ・ビジネスとNPOこそが復興のテコとなると、森女史は考えるよう になった。「何も特技を持っていない」という自覚から、森女史は中間支援機構を設立することを決めた。より多様なNPOとコミュニティ・ビジネスをサポー トするとともに、政府と民間との協働を推進することによって、市民の主体性を育てるという主旨のために。

3年間の準備を経て、森女史は宝塚NPOセンターを設立した。政府の支援を得てオープンしたオフィスは宝塚駅のすぐそ ばにある。彼女はそれぞれ特技を持った専門家集団を集結させ、NPO法人登録の手伝いをし、コミュニティ・ビジネスの起業研修と運営支援を行い、阪神 NPO連絡協議会を成立させ、さらに政府や企業と協働で「市民センター」を作り、まちづくりや子育て、就業など多くの分野で活動する市民団体をサポートし ている。

彼女と同じような「満足しない」市民たちはより多くの活動空間を得るようになった。「以前は『仕事』というと、みんな 企業や政府機関に勤めることしか思い浮かばない。震災後私たちが気づいたのは、NPOでも『仕事』ができること。それはマニュアルどおりに指示されたこと をこなす仕事ではなく、自分の創意で問題を解決していく仕事。この仕事のほうがもっとやりがいを感じさせてくれる」。

疲れ知らずの研究者

「復興は長い期間にわたるプロセスであり、防災救援の研究も同じである」

主役:菅 磨志保

肩書き:大阪大学講師、人と防災未来センター研究員

役の変化:大学生(震災前)-ボランティア研究者(震災時)-震災後復興研究の専門家(震災後)

「この小さな象は被災者たちがタオルで作ったもので、『負けない象』と言います」、菅氏は後ろのスクリーンにかわい い象の人形が映し出された。「一つの子象は400円で販売され、制作者には100円の収入が入ります。これはCODE(海外災害援助市民センター)による 創意工夫です。彼らは子象をさまざまな被災地に広めており、各地で制作された子象はそれぞれ特徴があり、かなり人気があります」。

100円の収入は決して多くはないが、生活復旧のきっかけとなり得る。「制作者は自分への自信を取り戻せるだけではな く、仕事を通して外の世界と接触を持つ機会が得られる。復興におけるNPOとボランティアの役割は、まさに被災者の自信を発掘することによって問題を解決 していくことにある」。

見た目は相変わらず学生風の菅氏は神戸の出身。震災一週間前、彼女は神戸から東京の大学に戻ったばかりだった。震災で 彼女は多くの親戚を失ってしまった。震災後神戸に駆けつけた彼女は多くのボランティアと出会った。あれ以来、彼女は二ヶ月ごとに神戸に戻り、「この未曾有 のボランティア活動」の追跡調査を行った。社会学専攻の菅氏はその後研究の方向性を変え、卒業後防災救援分野の研究員となった。

菅氏の最新の課題は「震災復興におけるコミュニティ・ビジネスの役割」であった。彼女は阪神大震災と中越地震後それぞ れ異なる領域で活躍していた9つのコミュニティ・ビジネスを対象に、長期間に亘るるフィールドワークを行った。これらのコミュニティ・ビジネスには手芸品 の制作、特産品の販売、食品販売、小さな宿の経営、配送配達の手伝いなどが含まれている。菅氏は、政府が個人の生活復旧に有効な政策を打ち出せない状況下 において、コミュニティ・ビジネスの最大の強みは、きわめて細かい社会的ニーズを満たすことができることにあると、指摘している。携わる者にとって得られ るものは多面にわたるという。「経済的ないくらかの報酬だけではなく、自信の回復、そして社会性の回復--協調行動における人間関係の復旧、さらに市民的 主体性の獲得に至る」。

コミュニティ・ビジネスの生存発展の周期と重要視する目標も社会ニーズの変化に応じて変化する。菅氏によれば、復興初 期におけるコミュニティ・ビジネスの意義は、規模の大きさもしくは利潤の大きさにあるのではなく、少額の収入で多面的な効果が得られることにある。二、三 年後、被災者たちは一緒に集まり、さらに長期的な話題、たとえばまちづくりや都市計画について話し合うようになる。この時期になるとコミュニティ・ビジネ スはさらに長期的な目標と安定的な運営モデルを獲得していなければならない。従って、彼らをサポートする中間支援機構が必要となる。

負けない“象”

「被災者には、救援物資よりもほしいニーズはないのだろうか」

主役:吉椿雅道

肩書き:CODE(海外災害援助市民センター)メンバー

役の変化:ボランティア(震災時)-海外救援NPOメンバー(震災後)

「昨年夏、私が四川省の被災地に行ったときに、ボランティアセンターの窓にこの子象が掛けられてあった」。通訳のFancyが無精ひげを伸ばした 若者を指さして、「この方はCODEの吉椿さん、子象は彼が持っていったの」と語った。流暢な中国語を話す吉椿氏は長旅で少々疲れた様子。「子象は神戸か らの励ましだ!」汶川地震後の8ヶ月、彼はずっと四川にとどまった。

吉椿氏は3名のスタッフを連れて震災4日後にすでに成都に駆けつけ、10日後には最も被災がひどかった綿竹にたどり着いた。彼らは被災者の具体的 なニースを調べ、一刻も早く自分たちの経験を役立てたかった。しかし、知らない土地と知らない人々。彼らの活動が窮地に陥っていたときに、地元のNGOが 助っ人になってくれた。どうりで今回の訪日団に四川省の現場から参加した二人のNGOメンバーと再会したとき、彼はまるで戦友と再会したかのように興奮 し、何度もお礼を言っていたのも納得できる。

吉椿は14年前の阪神大震災の時から炊き出しをして、被災者を助けていた。震災後、彼は神戸の「海外災害援助市民センター」に参加し、自らの自助 経験を他の国々と地域の被災者に分け与えたいと願った。以来7年間、CODEのメンバーはジャワ島で被災者のために耐震住宅を建て、アフガニスタンで震災 被災者のためにぶどう園を再建し、ミャンマーで竜巻に破壊された村で給水設備を造った。彼らにとって、災害は「過去」ではない。自分一人の人生に関わるだ けの出来事でもない。だからこそより積極的な問題解決の方法に彼らはたどり着いた。

CODEが発明した「負けない象」に因んで、人と防災未来センターの友人は薦めた。「四川の被災者の皆さんは『負けないパンダ』を作れば絶対に受けるよ。世界中が中国のパンダのファンだから!」。

ネットワークの仕掛け人

「この社会問題が存在する限り、彼はやり続けなければならない。諦めるわけにはいかない」

主役:広石拓司

肩書き:EMPUBLIC代表

「抵抗できるもしくは抵抗できない危機が訪れた時、たとえば地震、津波、経済危機の時には、遠くを見渡せる人が必要 とされる。社会に新たな思考方法を提示し、新たな道を示す。もしより多くの普通の人がこの役割を果たせるなら、未来の五年、十年、ないし二十年の間に、彼 らは新たな価値観と生活様式の創造者となるであろう」。

講壇に上がると、いつも優しそうな広石氏は鋭い一面を見せてくれた。成熟した社会起業家であると同時に大学で講義を持 つ彼は、まさに自らの実践で教え、伝えている。「社会的企業は一般の営利企業とは異なる。その目的はまだ解決されない社会問題にチャレンジするためであ り、商業的な利潤のためではない。しかし、利潤というモチベーションと誘因がない分、より密接な人と人との関係を創り上げ、それによって事業を推進し続け ていかなければならない」。

大阪で生まれ育ち、東京で大学を出た広石氏の事業目標はまさにここにある。彼は東京でいくつもの社会的企業のプロジェ クトを担当すると同時に、関西でも社会活動の中核を担う一人である。二つの全く異なった地域文化圏を行き来しながら、彼は地域をまたがった社会起業家ネッ トワークを築き上げようとしている。このネットワークの仕掛け人は普段きわめて気さくで謙虚で、2時間をかけて私たちをホテルまで送り届けてくれたとき は、彼をただの熱心な送迎ボランティアと間違えてしまうほどであった。

14年前の地震は広石氏にどんな意味を持ったのか。私は敢えて尋ねなかった。他人の新しい人生をいつも生き生きと語れ る彼だが、一度も自分自身のことを語ったことはない。しかし、これはもはや根掘り葉掘り聞くべきことではない。村上春樹の小説の主人公と似ているのかもし れない。小説の結びのところで、主人公はいつもぱっと何かを悟り、一瞬にしてうんと広い世界に身を置くようになる。関西の物語で登場したすべての主役は、 古い童話に新しい結びを与えた人々であり、夢見ることに値し、且つ行動するに値する新しい人生を書き綴っている人々である。

「どうせ書くなら今までとは全く違う小説を書く、一人一人が夢の中で待ち望んでいるような小説を書く。でも今は、愛する人が傷つかないようにそばで守っていなければならない・・・・・・再び空がひび割れ、大地が崩れ落ちるとしても」。

(この特集はETIC,GLI,日本国際交流基金の支援を得た。深く感謝を申し上げる)

翻訳:李妍焱

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