2011/01/26 by Matsue

原田燎太郎さん:中国嶺后村に心を寄せる日本人

小麦色の肌、髭を少しはやし、髪はミニポニーテール。「犀利哥」(訳注:ネット上で写真が掲載され中国で有名になったイケメン・ホームレスのニックネーム)のような破れたジーンズ、ロックミュージシャンのようなオーラ。ここまでクールな若者はNGOの世界で彼の他にいるだろうか。原田燎太郎さんは、世俗に超然としている人だと言えるだろう。

原田燎太郎(ハラダ リョウタロウ)、 32歳。中国歴8年。「家工作営(JIA-Joy  In  Action ワークキャンプ)志願者協会」の主な発起人だ。

Tips: 「中国と日本の最大の違いは、NGOの登録制度にある。日本では誰でも登録が可能だ。」

2003年、早稲田大学を卒業した原田さんは、故郷の神奈川から単身見知らぬ中国にわたり、嶺后村でハンセン病の快復者のために奉仕した。最初は中国での滞在は2年間のみの予定だったが、思いもかけず、いつの間にか8年経っていた。日本の中流家庭の長男で、毎日みそ汁と納豆を食べていた彼が、村人から親しみを込めて「太郎」と呼ばれるまでになり、ひまがあれば功夫茶(中国茶)をいれる様子は、まるで嶺后村の一員のようだ。村人の看護を手伝った後、腰掛けを持って皆と一緒に座り、功夫茶を飲みながら年寄り達のおしゃべりに耳を傾けるのが 毎日の習慣だ。潮州地方のテレビ局は午後になると潮劇(訳注:広東省東部に位置する潮州の伝統的な戯曲)を放送するが、年寄り達はテレビに合わせて口ずさみ、時々原田さんにも教えたりする。彼の謙虚で礼儀正しい普通話(訳注:中国語の標準語)にもわずかに潮汕地方の訛りがある。
原田さんは、自分が一番好きな村は嶺后村で、村での生活が一番心地よいと言う。彼は、外界から隔離されたこの村落で、美しい愛情に巡り会った。中国人ボランティアの蔡潔珊さんは、原田さんの村人への愛情に感動した。そして二人は結婚した。原田さんは、二人の間に生まれた可愛い娘さんを、嶺后ちゃんと名付けた。

差別は「知らない」ことが原因

原田さんが中国に来たのは、ほとんど偶然からだった。

2002年、東京で生活する多くの大学生と同様に、3年生になった原田さんは就職活動を始めた。「普通の会社では働きたくありませんでした。その当時は、記者になれば、比較的自由な時間が持てると思っていました。新聞社の面接申込み資料に、『差別をなくす記者になりたい』と書いたのは、小さい頃いつも同級生にいじめられていたからです。しかし、書き終わった後、自分が他人を差別視していることもあるのではないかと考え始め、確認してみなければ記者にはなれない、と思いました」

ちょうどその時、原田さんは、ハンセン病の快復者によるセミナーに参加する機会に出会った。これを機に、原田さんはフレンズ国際ワークキャンプに参加したいという衝動にかられた。「私は、中国広東省の清遠という場所で、ハンセン病快復村での援助活動があることを知りました。ハンセン病は、差別を受けている病気であることを知っていたので、参加しようと思いました。中国に来るまでは、実は中国に対してあまり良い印象は持っていませんでした。ただ、参加したい活動の場所が中国だったということです」

原田さんとチームメンバーは、車で清遠の楊坑村に到着した。これは日本と韓国からのボランティアによる2回目のワークキャンプだったため、村人達は車を取り囲み、笑顔で手を振りながら歓迎してくれた。1回目も参加したボランティアらはすぐに車から降りて、村人達と抱擁を交わしたが、原田さんは車を降りようとしなかった。ほとんどの村人の体には膿でただれた傷口があり、多くの年配者の目鼻や口は顔の中心によりかたまっており、手足が切断されている人もいた。「彼らの目鼻や手足が変形しているのを見て、とても怖かったのです。とても帰りたかったのですが、辺鄙な村なので自分では帰ることができませんでした」

その日の夜、原田さんが一人の日本人ボランティアとお酒を飲んでいるとき、一人の村人が部屋に来て一緒に飲み始めた。原田さんは、ノートに自分の名前を書いて、その村人にペンを渡した。しかし、村人が名前を書いてペンを原田さんに返そうとした時、原田さんはその人に触るのが怖かった。村人は親切に自分の部屋に原田さんを招待してくれたので、原田さんはやむを得ず行くしかなかった。

「その部屋には、白熱灯が一つあるだけでとても暗く、家具はみな古いものでした。彼がくれたバナナを私は受けとりたくなかったのですが、拒む理由もみつからないので食べましたが、味も感じられないぐらいでした。当時はそのぐらい恐怖を感じていたのです。彼は、昔の写真を見せてくれ、とても嬉しそうで親しみが持て、私も笑いました。彼の部屋の中で普通に呼吸ができるようになったのです。長いことしゃべった後、帰る時には『さようなら』と書き、とても自然に彼と握手ができました」

村に住み始めた原田さんは、チームメートと共に日本で募った資金で年配者のためのトイレをつくり、家を建て、水を引いた。彼は、ハンセン病快復者たちと一緒に住み、ご飯を食べ、毎日老人達の足を洗い、膿でただれた傷口の世話をし、皆と一緒に功夫茶を飲み、おしゃべりをした。一日一日が過ぎてゆき、原田さんは村人達と次第に理解し合えるようになった。「彼らはハンセン病とともに生活しており、障害と病気にいやというほど苦しめられ、社会から差別されて見捨てられており、多くの辛い経験をしていますが、彼らの精神はとても強い。そのため、次第に外観を気に留めることはなくなりました。このようにして私はもう怖いと思うこともなくなり、哀れんだり差別視せず、心から尊敬するようになりました。差別は、知らないために生まれるものなのです」


原田さんと村人達

人と人の絆を築く

同年9月、原田さんは潮安嶺后村に来た。ここが彼の人生を変えた場所だ。

当時の嶺后村は、見捨てられた孤島のような状態だった。幅4メートル、長さ300メートルの暗いトンネルを抜けると、雑草が生い茂り人家からの煙も無く、老朽した家屋が点々としており、外のにぎやかな世界とはまったく違っていた。原田さんの心に焼き付いたのは、この村で後遺症を持つ十数名の快復者は、ほとんどが身体に障害があり、村での生活が非常に困難なことだった。長い間隔離されていたため、多くの快復者は国の指導者が今誰かも知らなかった。多くの人は手足が無く、化膿した皮膚の上でハエが飛び回っていた。このような「悲惨な世界」を見て、原田さんは心を痛めた。帰国後、彼は自分の部屋にこもって数日間は話もせず、両親に心配された。

「嶺后には帰りたくなかったのですが、戻ってトイレをつくると村人達に約束していたので、11月に戻りました。」と原田さんは回想する。

三週間のワークキャンプの半分ほどまで来たある日の午後、夕日が沈むころ、原田さんはトイレづくりの作業を終え、村を散歩していると、村人の蘇さんが玄関口で食事をしているのに行き会わせた。蘇おじさんに誘われて、原田さんは穏やかな夕日のもとで、のんびりとお酒を飲んだ。蘇おじさんには悲傷な雰囲気はなく、二人は盃を交わし、心から笑った。その日から、原田さんは暇があれば蘇おじさんの家に行くようになった。

原田さんは、蘇おじさんが実はすごい人だということに次第に気づきはじめた。彼は、竹カゴを作ることや料理が得意で、変形した手指を使って、心をこめて作る。彼は歩くことができないため、数十年間ずっと嶺后に住んでいる。彼は、小さい頃親戚の家が日本人に焼き払われた話を原田さんにし、今は日中が友好関係になって良かった、とも話した。原田さんは、「自分は仕事が見つからなくて落ち込んでいましたが、彼は困難な環境でも生活を楽しみ、できる限り充実した暮らしを送るようにしています。私は、困難を克服する人生態度を彼から学ばなければならないと思いました。また、ここの人々が、ハンセン病だけのために家に帰れないのは非常におかしなことだと思いました。そして、中国人もワークキャンプに参加して、自分でキャンプを運営し、持続的に活動を展開すれば、蘇おじさんも家に帰れるようになるのではないかと思いました。この2つの点から、私は嶺后村に住むことを決めたのです」

この決定をした時、原田さんは両親の同意を求めた。「母はキリスト教徒で、父は共産主義者だったので、比較的オープンな家庭でした。両親に話すと、父には『よし」と、母には『何を言われても驚かない」と言われました。」と笑って原田さんは言う。

原田さんは、ボランティアを募集し始めた。これは困難なことだったが、蘇おじさんからの励ましが原田さんの動力となった。蘇おじさんとの絆のおかげで頑張って続けていくことができた、と原田さんは言う。「ワークキャンプを中国に根付かせたいと考えました。ワークキャンプは、人と人との絆を最も作りやすい方法だと思います。自然と友達になれるような関係です。」

「人と人の絆」は、理解しにくい言葉のように思える。原田さんが彼の一番好きな「星の王子さま」を使って説明するには、絆とは、「星の王子さま」に出てくる「tame」という言葉と同工異曲の妙があるそうだ。キツネは王子さまに言った。「おれの目から見ると、あんたは、まだいまじゃ、他の十万もの男の子とべつに変わりない男の子なのさ。だからおれは、あんたがいなくたっていいんだ。あんたもやっぱり、おれがいなくたっていいんだ。あんたの目から見ると、おれは十万ものキツネとおんなじなんだ。だけど、あんたがおれを飼いならす(tame)と、おれたちは、もうおたがいにはなれちゃいられなくなるよ。あんたは、おれにとって、この世でたったひとりのひとになるし、おれは、あんたにとって、かけがえのないものになるんだよ。」「tame」の元のフランス語の意味は実は「飼いならす」ではなく、良い関係をつくるために積極的に行動することだ、と原田さんは言う。

これが、その後原田さんが「家工作営志願者協会」を設立するにあたっての重要な理念となった。「最近多くのメディアが、ボランティアをする人は偉大で、賞賛されるべきだ、というような伝え方をしていますが、私はそうではないと思います。私が特に嫌なのは、「サービス対象」、「社会的弱者」、「ボランティア・サービス」、「思いやり」等の類の言葉です。これらの言葉は、全て人と人の間の距離を示しています。私は、皆がワークキャンプにいる時には、ボランティアとしてではなく、蘇おじさんと燎太郎というような関係であって欲しいと思っています。このような関係であれば、もっと理解し合い、互いに学ぶことができ、一生の友情が生まれるでしょう。」

何度も壁にぶつかった

にぎやかな東京から辺鄙なハンセン病村に来た原田さんは、最初は生活に適応できなかった。中国の食事は油の量が多く、最初はとても美味しいと感じるが、長くなると胃腸が受け付けなくなってくる。昼間はハエや蚊に襲われ、夜になると蚊帳を吊っても山中の大きく黒々とした蚊から逃れることはできない。一旦さされると大きく腫れ上がり、痒いことこの上ない。日本では、自宅の大きくて清潔なお風呂に入るのが好きだったが、嶺后村では、レンガで囲まれた露天のトイレが浴室を兼ねており、灯りも扉も無い。洗い終わって出て来ると、全身汗だらけになる。

嶺后で暮らす間に、原田さんは、潮州のボランティアによるワークキャンプ参加を発動し、広州の学生も清遠でキャンプを始めた。彼らは、学校や非営利団体、企業、病院等の現地の資源を十分に利用して事業を展開した。各大学でボランティア・セミナーを行い、大学ボランティア協会と連合で活動を行うことで、できるかぎりの問題を解決した。ハンセン病快復村ではトイレをつくり、道路や屋根を修繕し、現地の生活環境を改善し、慰問交流活動を行って年配者の心理的孤独感等の問題の緩和につとめた。彼らは、徐々にワークキャンプをニーズのある場所に持っていった。

2004年には、ワークキャンプの数も7つにまで増えた。キャンプのコーディネーターは、キャンプの調整を行うための組織が必要だと感じるようになった。こうして、「家工作営(JIA-Joy In Actionワークキャンプ)」設立計画が出来た。

2007年と2008年は、原田さんが混乱期と呼ぶ2年間だ。規則と制度が欠如していたため、方策決定、管理、執行等が役割分担されておらず、地区ごとの委員会には決定権がなく、内部管理が混乱していた。しかし原田さんはあきらめず、チームメンバーとの協力の下に一連の規則と制度を制定し、管理状況は改善し始めた。2009年には、ファイル及び物資の管理や人事制度をより良くし、実践中も常に改善につとめた。また、大陸側の中国ではNGO登録ができなかった「家工作営」が、2009年4月には香港で登録に成功した。

原田さんは 、日本人として「何度も壁にぶつかった」とため息をつく。例えば、嶺后に住んで1年半になっても、彼の動機を疑う村人もいた。2005年、日本対中国のサッカー試合で、日本のファンが中国の選手に不遜な口を利いたことから、日本製品ボイコット等一連の反日行動が再び起こった。原田さんが日本人であることと、「家工作営」の組織が登録されていないことが、湛江委員会を設立するにあたって最初の難題となった。現地政府は、原田さんらを非合法な団体で違法活動を行っていると見なし、大学でワークキャンプに関するセミナーを行う事を禁止し、更には現地でいかなる広報活動を行うことも禁止した。一部地域の病院は、安全面の問題を理由に原田さんらが村に入ることを拒んだ。中国にとけ込むために、原田さんはできるだけ日本語を使わないようにし、周りの人々の日本人に対する偏見をなくすようにつとめたが、キャンプでの彼の仕事ぶりを見ている仲間以外にはあまり効果がなく、多くの人は表向きだけは受け入れた。

しかし、現実の困難は「家工作営」の前進を妨げたわけではなく、ワークキャンプはずっと活動を続けており、実際の行動を以てボランティアの実質的な貢献を証明した結果、現地政府も次第に受け入れてくれるようになり、認めてくれるようになった。これまで「家工作営」は既に大きく発展しており、メンバーは既に広東、広西、湖南、海南、湖北等の地域に及んでいる。

メイド・イン・チャイナになる必要がある

「家工作営」の運営をより良くするための原田さんの一番の願いは、2011年末までに現地化を実現することだ。日本やアメリカから大量の資金を受け入れることもでき、資金の管理とフィードバックにおいても一定の成果があがってはいるが、原田さんは、中国の法律による認可を取得し、中国の人材やボランティアを取り込むと同時に、中国本土で持続的かつ出所が多様な資金を得たいと考えている。

なぜ今まで「家工作営」は、国内の基金から資金援助が得られていないのかという質問に、原田さんは次のように答えた。「一方では国内で組織として登録されていないということがあり、もう一方では積極的に求めていなかったためです。どんな国であっても、知り合いもいない基金を訪ねて行っても、一般的には取り合ってくれないですよね。中国の所謂『関係』は、多くの場合『信用』だと言うことができると思います」

中国と欧米での公益活動の違いに話が及ぶと、原田さんは次の様に述べた。「中国では偽ブランド品づくりが得意ですよね。でも私達は、メイド・イン・チャイナをちゃんとやりたいと思っています。アジアは本来良いものを沢山持っているのに、欧米のものをそのまま使おうとする必要があるのでしょうか。」彼は、欧米の事業評価方法は、必ずしも「家工作営」に適していないと考えている。現在の評価方法は、指標や数字に重きを置いているが、心理的な要因等は数字では評価しにくい。また、このような評価方式は、数字のために努力する方向に皆を行かせている。

「寄付する側の習慣を変えることも必要です。多くの寄付者は、数字で表せる計画や報告を好んでいます。彼らは、家を建てる等の成果が見えやすい事業を好んで賛助する傾向があります。しかし、快復村の間の交流活動は、資金を得ることが困難です。村でできるハード面の事業は次第に少なくなっており、ソフト面の事業を必要としていますが、援助を得ることが難しい状況です。」

ワークキャンプを通じて、多くの若者が、社会問題を発見して体験する過程の中で、解決方法を考え、他の社会的な力から学び、協力し合い、行動開始するのを原田さんは見て来ている。多くの人は、コミュニティーの社会問題は自分の問題だと考えており、このような意識は既に呼び起こされている。彼は堅く信じている。「中国の公益活動には明るい未来があります。しかし、一つの大きな前提として、NGOが発展するには、法的地位の確立が必要です。つまり民政登録です。でなければ、この先の10〜20年の間、中国は、社会的発展のための大切な基盤を一つ失うことになるでしょう。そして、これは後で取り戻そうと思っても、そうはいかないものなのです。

(一部資料は、社会保障調研チーム、豆瓣ネットより出典)

http://www.npi.org.cn

インタビュー編集:周丹薇
写真:被取材者提供

「社会起業家」2010年11月号28〜31ページより翻訳して転載:
http://www.npi.org.cn/uploads/magazines/npo/2_1680_232311.pdf

翻訳:A.K
校正:松江直子

This post is also available in: 簡体中国語

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