2015/05/18 by Tanada

民国時代の「無料の昼食」

20150518-1朱慶瀾氏は生涯剛直で人におもねらず、清廉潔白であり、救助した被災者は数えきれない。後に民国時代の「慈善元老」と呼ばれた。

最近、鄧飛記者が発起した「無料昼食」が広く知られている。北京師範大学中国公益研究院の王振耀院長は、「中国の公益事業史上の大事件」としている。たった3元で簡単な昼食を提供するこの活動は、たった半年で、何万人もの農村の子どもたちに恩恵を与え、最終的には農村の義務教育段階にある学生の栄養改善計画という国家の活動にもつながった。

実際、この「3元ランチ」に似た活動は、民国時代に公益事業として存在した。特筆すべきは、この活動は最後の皇帝、宣統帝溥儀も心を動かされ、3000元を寄付していることからも、その影響力がうかがえる。この活動こそ、朱慶瀾氏が1929年に始めたものだった。

「朱将軍」と呼ばれた朱慶瀾

朱慶瀾(1874年―1940年)は字を子橋といい、浙江省の紹興出身。幼い頃は家が貧しく両親と早くに死に別れ、生活は苦しかった。背が高くたくましい体つきであったため、周囲は軍に入ることを勧めた。1893年、朱慶瀾は東北へ行き、趙尓巽総督の率いる新軍に入る。その勇敢な戦いぶりによってみるみる昇格していった。土着の強盗団にも手を緩めず徹底的に鎮圧したため、民衆からは親しみを込めて「朱将軍」と呼ばれた。

1908年、朱慶瀾は趙尓巽の四川省への異動に伴い、陸軍第17鎮統制官(現在の師長に当たる)に任命され、全省の軍事を担当することとなる。孫文の民族主義思想の影響を深く受けていたため、共和主義を擁護し、湖北省武昌での決起の際は、軍を率いてすぐに同調した。

1914年、袁世凱は、特任する陸軍で、朱慶瀾を黒竜江省最高軍事長官兼省長に任命する。2年半にわたる任期で、政治と社会とをともに治め、国境での国防工事を進め、松花江の航行権を取り戻した。商人たちは、記念に新しい船に「慶瀾号」とつけたこともある。官銀号(政府金融機構)の毎年の納付金は20万元であったが、朱慶瀾は受け取らず、モンゴル語学校や女子学校の建設に使った。その後、朱慶瀾のこととなると、商人たちはこう言った。「将軍がチチハルに来られたのは、戦場で毛布と馬を得たようなもの。そして、私腹を肥やすことなく、チチハルを去られた」。

1916年6月、袁世凱の後任の黎元洪は、朱慶瀾をことのほか重用した。この時、広東省に動乱が発生していたため、黎元洪は総統令により、朱慶瀾を広東省の省長に任命した。朱慶瀾は不党主義を主張したものの、孫文の敢然たる革命精神の影響を受けており、積極的に孫文の護法主義を支持した。護法運動が始まってからは、孫文を助けて広東省を中心とした本拠地を作り、その後自分の40部隊の省警衛軍から20部隊を護法軍として選び、孫文に正規の武装勢力を持たせた。

軍閥の混乱により、相互の排斥や騙し合いが始まり、1918年秋、朱慶瀾は広東省省長を辞職し、上海の自宅に戻った。彼はこう言った。「権力争いや騙し合いは本当に恐ろしい。孫文先生はかつて私に言われた。人民がたくさん食べられるようにせよと。人民と国家のためになることなら、私は何でもしたい」。

この年、多くの人の支持を得て、朱慶瀾は華成と泰和の二つの塩田会社を設立し、自身が二社の社長となった。これにより、当時の農民工の基本的な衣食の問題も解決され、社会秩序の安定にもつながり、さらには抗日戦争時に新四軍を積極的に支援したことで、国民に対する多大な貢献を生んだ。

1923年から1925年まで、朱慶瀾は東省(民国時代における黒竜江省と吉林省の間の省級特別行政区)特別行政長官を務めた間、ちょうどソ連を飢饉が襲い、深刻な食料不足により生き延びるために越境する者も大勢出た。朱慶瀾は、「ソ連の災害では餓死者が出ている。皆同じ人類として、災害時は助け合おう」との理念に基づき、「ソ連災害救済会」を起こし、汽車300両分の食糧援助を集め、ソ連のチタまで運び、中ソの人民は災害時の困難を共にする、という熱い友情を示した。

1925年2月の奉直戦争中、内戦に反対だった朱慶瀾は軍政の世界から離れ、社会貢献事業に身を投じるようになり、災害に苦しむ被災者を助ける慈善事業に専念するようになった。いわゆる魏書の「一切の外界の影響に左右されず、人に対して寛容に、慈愛をもって善良であれ。行くも退くも、沈むも浮くも、自身次第である」の世界である。

3元が一人を救う

1928年から、陝西省では3年に渡り干ばつが続き、広範囲にわたる不作で、飢饉が発生した。西安の一角だけでも、毎月の餓死者は数百人に上り、子供の人身売買も数えきれなかった。当時の国民党政府は、常設の救済保護部門があり、中央賑務委員会と言ったが、内戦に忙しく、名ばかりの部門であった。民間の慈善団体の力は限られているため、朱慶瀾は華北と東北の六大民間慈善団体を集め、「華北慈善団体連合会」との統一の名を定め、会長として陝西省に救済に赴いた。

朱慶瀾の一行は扶風県の県境あたりまで来たとき、「二人の青年が幼い男児を捕まえ、殺して分け合って食べる」という惨状を目の当たりにした。悲痛極まりない光景であった。調査したところ、陝西省では毎年災害が起こっており、1300万人の人口のうち、既に300万人が餓死し、600万人は既に他地域へ離散しているとのことだった。陝西省の度重なる災害は深刻な食糧不足をもたらし、現金があったところで買える食糧が無く、一行は天津に戻り食糧支援を集めることとなった。

また西安では、朱慶瀾の一行は災害が広域にわたり、用意してきた資金は全く足りないことを目の当たりにし、すぐに戻って大量の支援金を集めることを決定した。車が鄭州に到着したとき、馮玉祥が駆けつけ、一行がぼろぼろの荷台の上に一枚の帆布を敷いているだけで、あとは地べたのままになっているのを見て、いたく感動し、涙を流しながら朱慶瀾に言った。「国や民を救うために、労苦を厭わず、生活もこのように質素でいらっしゃる。国の担当部門がみなあなたのようだったらよかったのに。」そして、査良釗(金庸のいとこにあたる)に、華北慈善連合会の総幹事として随行させた。

西安から天津に戻ると、朱慶瀾はすぐに、「3元の募金が一人の命を救う」をスローガンに、大規模な募金活動を始めた。開濼鉱務局などの大企業や団体は、どこも大口の募金を提供した。この間、「大公報」「益世報」などの雑誌はみな記事やコラムで宣伝し、定期的に雑誌上で、募金者の名前や募金額を掲載した。

当時、天津に暮らしていた宣統帝溥儀も、朱慶瀾の活動に感動して言った。「陝西省、甘粛省の災害の状況がこのように深刻とは、史上まれにみることだ。このスローガンは大変力がある。私は千の命を救いたい。」そして3000元を寄付した。上海映画製作所では、陝西省の災害に注目し、現地にて記録映画を製作した。朱慶瀾からは「人道」というタイトルをつけてもらい、手書きもしてもらった。記録映画上映後、各界からは大きな反応があった。

食糧購入の資金集めのため、朱慶瀾は自ら東北へ出向き、親戚や知り合いを訪ねて募金を集め、8000トンの食料を購入し、災害に苦しむ百万人の人々に与えた。彼は西安や扶風等の地区に被災児童の学校を建て、孤児数千人を収容した。1929年、辛亥革命の先駆として、国民党の元老の於右任氏が陝西省に戻って視察したとき、朱慶瀾に対し感動し感謝の意を述べた。「子子孫孫に至るまで永遠にあなたを忘れはしません。」

特筆すべきなのは、民間の立場でも、公務員の立場でも、朱慶瀾は被災地に身を置き、被災者を心にかけていたということだ。陝西省の救済は3年以上に渡ったが、西安にいたのは半分で、残りは被災地を駆け回って調査し、救済活動の監督や、食糧集めのための募金活動に注力していた。この間集まった募金は百万元以上。雑誌上でも、「朱慶瀾の対応の迅速さ、事務の周到さは、災害における救済の歴史上まれにみるものである」と賛辞を受けている。

執筆者 燕客卿
執筆者所属 公益时报
翻訳と校正 翻訳:三津間由佳、校正:棚田由紀子
メディア http://www.ngocn.net/home/news/article/id/362073

This post is also available in: 簡体中国語

Facebook Twitter 微博

CATEGOLY