2014/12/03 by Tanada

汶川地震 ~5年後の今~ (その6)楊柳寨村&牛尾寨

第6回 楊柳寨村&牛尾寨

被害状況:建物はすべて倒壊

復興支援:楊柳寨村第4組:謝英俊・協同建設チーム

        牛尾寨:村民による自主再建

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謝英俊が設計した楊柳新村

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謝英俊が設計した楊柳新村

四川省茂県楊柳寨村は、旅行者にはほとんど知られていない村だ。私がその村に行こうと思った理由は、「人民建築士」の謝英俊が手がけた四川地震の再建事例第一号で、清華大学の羅家徳享受と友成基金が協力して実施した、復興農村の持続可能性に関する実地試験場だったからだ。NGOの世界では、楊柳寨村は有名なのである。

まず、謝英俊について説明せねばなるまい。謝英俊が有名になったのは、1999年に発生した台湾921地震だ。彼がサオ族(訳注:台湾原住民族のひとつ)のために行った再建活動は、台湾では「協同での家屋建設の模範例」と称され、コミュニティの発展を研究する学者や専門家が賞賛し推奨した。いわゆる「協同建設」というのは、現地の人が土地柄に合わせて適切な措置を取り、資材は現地調達し、コミュニティや隣同士で助け合う精神を高め、自分たちの力で自らの家屋やコミュニティを構築する、ということを指す。

2008年の冬、二度目の四川入りをした際、謝英俊チームのあるボランティアと偶然知り合った。若者というのはすぐに感化されるもの、加えて謝英俊が唱える理想は「中国9億人の農民のために」家を建てることなので、思い出しては感情を高ぶらせていた。その年の冬の農村再建はまさに破竹の勢いだったので、私は自分が属していたボランティアサービス拠点の綿竹遵道鎮で、彼の設計した「軽量鋼構造建築」を一生懸命PRし始めた。当時、ほとんどの農村では集団再建モデルを採用しており、1平米あたり550~770元の人件費と材料費込みの建築費を施工業者に支払って、村を再建させていた。謝英俊が推奨する耐震等級9の軽量鋼構造建築は、1平米あたりの建築費が500元以下だった。理解に苦しんだのは、謝英俊が九龍鎮(遵道鎮の隣り)にモデルハウスを1棟造った際の建築費は煉瓦造りの3分の2で済んだのにも関わらず、結局、軽量鋼構造建築を現地で推し進められなかったことだ。私が遵道鎮の秦家坎村の第4組と黄金村の第1組でPR活動をした際、30~40名の村民が話を聞きにきたのだが、結局この工法を採用した人はいなかった。当時、私が現地で集めた意見をフィードバックすると、「こんな、泥を糊でくっつけたような家なんて、これまで住んでいたボロ屋と何ら変わらないじゃないか。見た目もみすぼらしいし、ネズミも防げない」。

綿竹一帯に住む村民が、耐震能力が高く建築費も安い軽量鋼構造建築を採用しなかった理由は、村民の審美眼の基準が変化しただけでなく、もっと大きな要因として、軽量鋼構造建築は時間的なコストが高いことが挙げられる。黄土の泥は現地で入手可能だが、泥の接着度を高めるために一定時間発酵させる必要がある。四川のような高湿多雨の地域では、泥を完全に乾燥させないと使えない上、造った壁を乾かすのに半年かかるのだ。村民はそんなに待てない。「2009年の春節の前後数ヶ月で家を完成させ、それから出稼ぎに出て住宅ローンを返済する」。この辺りの家庭はほとんどがこのように算盤をはじいていた。

楊柳寨村に入る前、謝英俊チームと面識のある友人に電話をかけた。「君たちが四川地震で建てた家屋は、最終的に何棟だった?」「300棟ちょっとだけど」。この数字を聞いてがっかりした。謝英俊が提唱する「協同建設」は、四川地震のような一大再建市場の中では、成功を収めたとはとても言えないからだ。

茂県から松潘県に至る街道の中程にある楊柳寨村は、歴史上もっとも有名な地震由来の堰止め湖である叠溪湖からわずか7~8キロの所にある。楊柳寨村に行くには、古くからある茂県バスセンターを午後3時前に出発して現地に向かう農村客運のマイクロバスに乗らなければならない。

私を迎えてくれたのは、郷村持続可能発展センターの小楊さん。彼は、清華大学の羅家徳と友成基金が協力して作った公益団体の職員で、楊柳寨村にいる目的は、被災後に再建した村がどうやって持続可能な発展を遂げるのかを探求するためだった。センターの計画は「現地の特色を発掘し、チャン族の村の文化を発展させる」である。実は、この計画には何ら目新しい点は無いのだが、体力不足の公益界では、他人がスローガンを叫ぶよりも、まずパッケージ作りをする方が先進的なモデルになる可能性があるのだ。

謝英俊の建築作品は、実際に見るよりも写真で見る方が、より魅力的に写る。被害が甚大だった地区で、大なたをふるって町並みを一新した新しい村と比べると、謝英俊が再建した集落は取るに足らない小作品だ。最終的に楊柳寨村は山の上から下に降ろされ、軽量鋼構造建築で建てられたのはわずか56戸だった。耐震の面から見ると、この軽量鋼構造建築の骨組みは規格を満たしている。しかし、居住に適しているかどうかといえば、改善の余地が大いに残されていることは明らかだ。一度に入植した新しい村の家屋は、伝統的な民家の持つ「生活と生産の一体化」を破壊し、職住乖離が招いた移動にかかる時間的コストを増やしてしまった。村民は毎日1時間かけて、家から山上の耕作地に放羊しに行く。子どもが学校に通うのも、40分から1時間かけて山道を歩いていかなければならない。見た目はきれいな新しい家に対して、村民は実はあまり思い入れがない。村民たちの思いの大半は今でも山上にある。彼らの財産――田んぼ、牛、羊はみな山上にあり、しかも山上には祖先が眠っている。山の下に建てられた家にはベッドがいくつかあるだけで、寝に帰る場所にすぎなかった。

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謝英俊が設計した楊柳新村

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村民の日常生活

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楊柳寨村の子ども達

後日、私と友人はこの問題について討論した。友人は、やりきれない様子で私に言った。「謝英俊チームの責任じゃない。新しい家自体に問題は無かった。元々の設計段階では生活と生産の一体化は考慮されていたし、それはチームも提唱していた。問題は、別の場所で再建する際に、政府が前もってゆとりの空間を一切残さなかったことと、伝統的な村の家屋が備えていた生産空間、例えば豚小屋とか、そういったものは新しい農村を造成するにあたって、村の景観整備レベルの妨げになると考えられたことにある。そのせいで設計士は、手枷足枷をはめられたまま踊らざるを得なかったんだ」。友人は、現在の被災地再建プロジェクトにおける生産と生活空間の乖離を招いてしまったのは、村民に発言権がなかったためと考えている。被災地の再建は、政府の主導の下、統一された規則に従いながらの自力再建モデルで行われている。このモデルがもたらした弊害は「農村の景観の都市化」だ。野菜畑が草地に変わり、豚小屋が車庫に変わり、生産と生活は隔離される。都市での標準を農村建設に当てはめていいかどうかを決めるには、村民の投票が必要だ。設計士はというと、政府の関与が少なくなればなるほど、村民の自主性はどんどん高まり、結果として再建後の村がさらに美しくなることを望んでいる。

友成基金がボランティアを派遣して実施した持続可能な発展の実験は、やる気はあるが力不足の面が否めなかった。書物の中の理論は、村民による実践経験には遠く及ばない。羅教授は何人か引き連れて不定期的に視察に来たが、ほとんど結論が出ないまま終わってしまった。それに引き換え、成都から来た一部の熱心なボランティアが立ち上げた親睦活動はもっと実用的だった。筆者は楊柳寨村で、ちょうどこの親睦活動を経験した。以前、楊柳寨小学校でボランティアをしていた成都のある女性ボランティアが、その日は50~60名から成る保護者と児童の体験団を結成していた。夜、その体験団のために、村は盛大なキャンプファイヤーを行った。羊の丸焼きやチャン族の歌舞儀式など、費用は3000元。キャンプファイヤーの後は保護者を20~30軒の家に分けて宿泊させ、一人あたりの宿泊費は40元の計算だ。私は村の党支部書記に、このような旅行団体は月にどれくらいやってくるのかを尋ねたところ、メーデーや国慶節などの繁忙期は週に2団体のペースになることもあるという答えだった。閑散期は月に2~3団体程度とのこと。かつては、よそから来た組織に対して大きな希望を抱いていた支部書記だが、ますます距離を置くようになっていた。彼の目から見ると、実益をもたらした公益組織はほぼ皆無だった。どこも皆、学生の集まりにすぎず、一通り考えを述べるだけなので、支部書記はこの手の視察提案団の受け入れには時間を割きたくないという。

謝英俊について聞くと、ほとんどの村民がその名前を知っていたが、どんな人だったかはよく覚えてないという。村民が今でもべた褒めするのは「小九」という、謝英俊チームにいた広東省出身の女性ボランティアだ。彼女は楊柳寨村の再建プロジェクトで一番長く村にいた人間で、一番大変だった時期に楊柳寨村の人と一緒に過ごしたので、誰よりも一生懸命で真面目で善良なボランティアとして楊柳寨村の人から絶賛されている。それからというもの、楊柳寨村の人々は後続のボランティアに対して「小九さんと同じくらいやってほしい」と要求するようになってしまった。

向こうは叠溪湖、反対側は松潘や九寨溝につながる楊柳寨村は不運に見舞われたが、資源に乏しい他の大多数の村と比べると、幸運だとも言える。台湾人である謝英俊と羅家徳の両名が持つブランド力に惹きつけられる信奉者が次々とやって来たので、楊柳寨村は人情に厚く正義感あふれるボランティアの若者やイベントの参加者が継続して関心を持ち続ける村になった。関心というのは、ある意味、資源獲得の前触れである。

この小さな村に2日間滞在して観察してきたが、残念ながらこう言わざるを得ない。「この村の再建は、いわゆる台湾モデルではなく、とある台湾の設計士が56戸の家を設計したというだけ。それ以外の何物でもない。友成モデルでもなく、年に1回やって来るボランティアは学ぶだけで広めようとしない。生計の道は、やはり村民が自分で考えていかなくてはならないのだ」。

牛尾寨

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廃棄された旧村

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旧村

楊柳寨村から徒歩30分ほどの牛尾寨は、村民の自主再建と家屋建設の模範例かもしれない。村に入る前に、集落を通る進寨大橋のところに「原生态多声部落(伝統的な芸術である合唱を受け継ぐ村)——牛尾寨」と書いてある巨大な看板が目に入った。

牛尾寨は国道213線に位置し、岷江河の西側にある。標高2350メートル、成都から北へ273キロ、九寨溝から南へ150キロ離れている。牛尾寨は旧松州(現在の松潘)と旧茂州(現在の汶茂)の間にあるので、代々の軍事的要地であった。吐蕃帝国の時期、騎馬民族のチベット人はその時代の王者で、彼らはどの地でも負けたことがない。撃破されていなかったのは、牛尾寨ただ一つであった。その最大の原因は地勢であった。激しい岷江は天然の堀、険しい高山は強い砦。河を渡って、山に登って、牛尾寨に着くまで四~五時間かかる。敵が着いた時には、もう疲れ切ってやり返す力を無くしている。この村はまるで一頭の牛を食べた時、しっぽだけが食べにくくて残ったような地形をしているので、それに由来して、「牛尾寨」と名付けられた。

時は移り事情も変わる。様々な原始的な兵器でも倒せなかった村の村民は、結局おとなしく山を下りた。何故かというと、昔彼らの家を守った高山は経済発展期の今、障害となったからだ。村のお金はほとんど運送業によるものだったので、「便利さ」は最も要求されている。村民は申し合わせたかのように山を下りた。十年前、この元々100軒ほどの村の人がどんどん山から下りて、麓に移住した。2008年の地震後、国の地震補助金のお陰で、村まるごとの移住ができた。

この村の再建に関わったものには、外の建設チームはいなかったし、国の設計院の設計者もいなかった。でもこの再建した村は私に取って一番奇麗である。どこが奇麗かというと、今まで私が見た再建したものの中で、唯一元々の農業社会の生活と生産を一体化した建築であることだ。ここの家の高さは4、5メートルが普通で、棟続きの一階建ての建築である。屋内には屋根裏部屋があって、屋外は家畜飼養場、床下は糞便池。家の隣にあるガーデンは畑になっている。この構造は暮らしにも農業にも牧畜にもいい。先輩たちの経験に現代の要素を加えてこのデザインになったのだ。施工業者は?村民達自身である。

牛尾寨は多分、謝英俊が提唱する「協同建設+生態環境保護新コミュニティ」にとって、成功した例である。成功する秘訣は複雑ではない:自分で考えて、自分でやればいい。

執筆者 譚斯穎
執筆者所属  
翻訳と校正 翻訳:ヒョウウン、棚田由紀子 校正:棚田由紀子
メディア http://www.cdb.org.cn/newsview.php?id=7451

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