2014/11/06 by Tanada

孤児院の老いたる者と幼き者を守る: 無一物者からの贈り物

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同年代の女性が、星座占い、スキンケアやボーイフレンドなどについておしゃべりしているとき、26歳の国秋さんは話の輪に入りにくい。彼女には彼氏もいないし、お化粧もせず、自分の誕生日さえ分からない。幼い時に江西省貴渓市の社会福利院(訳注: 身寄りのない老人や、孤児などのための福祉施設)に捨てられた国秋さんは、今はそこに残ってある人の孤独な命を守っている。

国秋さんの過去については、あまりよく分かっていない。「国秋」という名前も、血縁関係もないある老人がつけてくれたものだ。もとは国秋さんとその老人の人生にはあまり接点がなかったが、老人が晩年になってから二人の関係は緊密になっていった。

中国南部の冬の夜はじめじめして寒いが、それでも国秋さんは部屋のドアを少しだけ開けておくようにしている。熟睡してしまい、壁の向こうの様子が聞こえなくなってしまうことを心配しているのだ。壁の向こうには、李義という名のその老人が暮らしている。慢性気管支炎のため、90歳の李さんは部屋から出ることはできず、しゃべる時に胸のあたりでぜいぜいと音がする。夜はいつも咳が出て、1階に下りることさえ困難だ。

2年前、国秋さんはこの身寄りのない老人の孫娘のような存在となり、「おじいちゃん」の隣の部屋で、石で支えないとぐらぐらする木のベッドに寝るようになった。李さんが咳をすると、不思議なことに呼ばれなくても国秋さんが壁の向こうからやって来て、ベッドの下から痰つぼを出して李さんの傍に置いてくれる。

国秋さんと一緒に育った女の子たちは、ほぼ皆この施設を出て暮らしているが、彼女は未だ古巣に残っている。国秋さんは、好んでこの施設を「家」と呼ぶ。昔は敷地内の池のほとりでゴム跳びをしたり、宿舎でかくれんぼをしていた。便所の横に植わっている枇杷をこっそりもぎ取ったり、庭にある栗の木に登ったりして、当時庭師をしていた李さんに見つかってしまうと、「何食べてるんだ。まだ熟してないのに」と叱られたものだ。

それから何年も経ってから分かったことだが、結局恩返しをしてくれたのは、栗の木ではなく国秋さんだったのだ。

だが、以前、李おじいさんと「孫娘」の間にはあまり接点がなかった。李さんは施設で庭師をしており、しかめつらしい表情で果樹や菜園のあたりにいることが多く、子供たちと話したり笑ったりすることは少なかった。国秋さんは施設の中でもあまり目立たない女の子だった。髪は男の子のような短髪で、背が低くて口数が少なく、施設の女の子たちの中で特に可愛がられるほうではなかった。

施設の子供たちは、学校で他の子供達に心無い悪口を言われがちだ。だが国秋さんは、同級生といざこざがあっても、「親がいなくて躾の悪い子供」と言われることを恐れ、大声で喧嘩したりすることはなかった。養子に取られて施設から出て行った後に施設の訪問に来た女の子たちが輝いている様子を見て、以前は羨ましくも思った。一人の時は、頬杖をついてぼんやりしながら、いつか突然誰かが私を引き取りに来てくれたなら、どんな感じがするだろうか、と思い巡らしたりしていた。

それでも国秋さんは、自分の境遇について悔しがったりすることはなかった。彼女は、「生まれた時のことは左右できないけれど、自分の選択が運命を変える」と言う。20歳の夏、身分証明書上の誕生日には、自分で稼いだお金で携帯電話を買って自分へのプレゼントとした。

施設に来た当時は無一物の女の子だったが、次第に多くのものを得ていった。夜は施設の他の女の子9人と同じベッドで寝、通学時には両脚の膝から下を失くした後輩の女の子を背負いながら、走って学校に行った。中国の子供の日に当たる6月1日には、施設の子供達全員の誕生日祝いがあり、新しい洋服を2着とゆで卵3つがプレゼントされた。

施設のスタッフが子供達の親代わりとなり、学校の三者面談にも参加する。施設にいる身寄りのない老人は、子供達の祖父や祖母代わりだ。2002年、国秋さんが南昌市の実業高校に進学する前、身寄りがないためこの施設で暮らしている施乾美という名の67歳の老人は、国秋さんを自分の部屋に呼んだ。施さんは両目を失明しており、施設の子供達からは「目の見えないじいちゃん」と呼ばれていた。収入もなく、施設に依存してきた施さんだったが、国秋さんの手に二つ折りにした100元のお札を1枚握らせた。

「学校ではしっかり勉強しなさい。喧嘩したりせずに、身体には気をつけて」施さんはそう言い聞かせた。言葉で表現することが苦手な国秋さんは、どう答えればよいのかわからず、「うん、わかった」としか言えなかった。

国秋さんは、数年経ってすでに施さんが既に亡くなった後になって、次のように語ることができた。「施さんは私にとってとても大切な人です。家族のいない私は、ここを家だと思うしかありません。ここの大家族生活の中で自分に良くしてくれる人がいると、自ずと恩返ししたくなります」

怪談話でさえ怖がる国秋さんだったが、南昌の学校では葬祭業を専門に選んだ。高収入が見込める上に、まだ若いのに国秋さんは「結婚しない」と決めていたからだ。この専門を選べば誰も自分に近づいてこないだろう、と思ったのだ。彼女は一人でいることに慣れており、他人が突然自分の生活に入り込んでくることを嫌った。傍から見る彼女は、ちょっとクールで、少し偏屈とも言えた。

だが、施設に帰ったとたん、彼女は親しみ易い普通の女の子に戻る。冬休みや夏休みには、施設に帰って施さんを見舞った。施さんを支えながら階段を一緒に下りて散歩をしたり、付近の教会の礼拝に行ったりした。目が不自由な施さんに、道沿いの風景を言葉で描写して聞かせた。「おじいちゃん、ここにはとても広いお庭があるよ。大きな桃の木が植えてあって、端っこにはミカンの木が一列に植わってるよ」

施さんは国秋さんに会うたび、年長者が年下に対してよくするように、「人格が大事なんだ」、「人となりや処世の態度は穏やかなほうが良い」などと繰り返しを厭わず言い聞かせていた。だが国秋さんは、これをうっとおしいと思うことはなかった。彼女の周りには、生活の上で色々と面倒を見てくれる人々はいても、自分の子供のように接してくれる人はいなく、このような話をしてくれる人は貴重だったからだ。

施さんが逝去したという電話連絡を受けたとき、国秋さんはすでに卒業しており、貴渓市の回帰園という斎場で働き始めて二、三年経っていた。国秋さんの仕事は、霊柩車の運転や、遺体に化粧をしたり、衣服を着させることだ。最初に遺体に触れたとき、その氷のような冷たさが心に刻み付けられた。最初は、頻繁に手を洗うようになり、煮込んだ肉や鶏足が食べられなくなったり、夜になると「家」が恋しくなった。そのうち慣れてきて、暇なときには斎場のロビーでテレビアニメを見ながら、声を出して笑うこともできるようになった。

施さんの遺体は、国秋さんが自ら火葬炉に送りいれた。そのとき、プロの納棺師であるはずの彼女の頭の中は突然真っ白になり、覚えているのは床にひざまずいてお辞儀を三度したことだ。施さんが亡くなった日の夜、国秋さんは老人の孫娘として遺体の傍で一夜過ごし、最後にはどうやって眠りについたのかも覚えていない。

生前の施さんは、死後はいかなる束縛も受けたくない、と国秋さんに話していた。国秋さんは、施さんの遺志を尊重し、貴渓を流れる川にかかる橋の上から散骨した。国秋さんは、その日は雨が降り出して、風もとても強かったことを覚えている。

国秋さんが施さんの遺体の傍で一夜をあかしたことは、すぐに庭師の李義さんの耳に入った。その時、李さんは既に仕事はできなくなり、孤児院に残って老後を送っていた。かつて親戚の子供二人を育てたが、二人とも結婚してからは離れて暮らし、正月や祭日の時だけ、見舞いや、お小遣いを渡しにくる。

  「もう90歳の老人がお金をもらってどうするんだ。私が必要なのはお金じゃない」と彼は大きい声で叫んで言った。その時、彼の胸元がゴロゴロと鳴った。

  国秋さんと施さんのことは、諦めかけた彼に微かな希望の光を与えた。彼は、孤児院で育った子は、家庭教育を受けておらず、冷たくて自己中心だと、以前は偏見をもっていた。しかし、国秋さんのことで彼は考えが変わった。孤児院の中庭で散歩する時に国秋さんに会うと、自ら話しかけ、また彼氏を紹介しようと世話を焼いたりした。

  この小さな街では、国秋さんの周りの同年代の女性はほとんど結婚し、家庭をもっている。彼女に気を配り、民政局の幹部は彼女を民政局の行政窓口に転勤させた。彼女はようやく10キロ以上離れた会社の宿舎から「家」に戻ることができた。孤児院にはこういう子供達のためにちゃんと部屋を確保してあった。

 国秋さんの記憶の中では孤児院はとても大きかったが、今改めて見ると、小さくなったように感じた。ベランダに立つと、孤児院の全てがはっきりと見える。ミカンの木や桃の木、梨の木が一面に植わっていた果樹園は新しく建てた老人アパートに取って替えられた。彼女は昔のように他の子と一緒に同じベッド、同じ部屋で暮らす必要はなくなった。一緒に育った姉妹たちはみんなタンポポの綿毛のように孤児院を離れていった。

  国秋さんは依然としてここに住んでいるが、彼女は少し寂しく感じる。暇な時に、インターネットで“野菜を作ったり”、クロスステッチを縫ったり、一人でバスケをしたり、あるいは孤児院の子供たちと遊んだりする。知力障害を持つ子供は、見知らぬ人を見ると興奮して手を振って叫ぶ。国秋さんはそのような子供たちを昔からの知り合いのように感じる。ぼうっとした輝きのない目で、じっと人を見つめて何も話さない様子は、幼い時の自分のようだ。国秋さんは彼らにおやつを買ってあげたり、おしゃべりしたりもする。たとえ彼らは分からなくても、誰かが傍にいれば喜ぶと、国秋さんは知っている。

  老いた庭師の李義さんも一人ぼっちだ。以前、彼は絶対子供を自分の家に遊びに来させなかった。今は状況が変わった。彼は階段を下りることが困難なため、国秋さんはよく彼の家に見舞いに行く。彼女は話すのが得意でないから、代わって李さんから積極的に話しかけ、テレビで見たドラマや若い頃のことを話す。国秋さんは、この老人はうわさに言われるほど冷たくないと思った。

 そのころ、李さんは慢性気管支炎を患っており、少し話すだけでも胸はふいごのような音がした。二人が親しくなってきた頃に、李さんは試しに国秋さんに聞いてみた。夜に咳が始まると一人でどうしようもないから、冬は自分の家に引っ越してきて、隣の部屋で自分を世話してくれないか、と。

国秋さんは同意した。周りの友達は、未婚の女の子が縁もゆかりもない独身の老人と一緒に暮らしていることが世間に知られたら世間体が悪くなると、何度も説得した。一緒に育った姉妹たちも、幼い時に李さんがそれほど良くしてくれてもいなかったのに、どうしてそこまでするのと、不思議に思った。しかし、彼女は聞こえないふりをした。

冬入りした夜に、国秋さんは自分の宿舎で寝る準備が終わった後に、「おじいちゃん」の家に行って世話をする。天気の良い時に、国秋さんは「おじいちゃん」をベランダに連れ出し、日向ぼっこをする。洋服の着すぎで体が痺れることを心配し、腕をもんであげる。ある日、国秋さんが外でお見合いしている最中に、李さんから突然電話がかかってきた時は、彼女は電動自転車に乗ってすぐに帰った。

このような孫娘ができ、李さんは心から喜んだ。まるで子供ができたようで、体も元気になった。国秋さんが出かける時には、「くれぐれも自分が強いと思って、勇ましく振舞うな」、「食事の時に人より遅れるな」と、何度も繰り返し言い聞かせる。他にも、李さんは国秋さんにそろばんを教え、植物の接木技術も伝授した。

この一見厳しい老人は、実はとても優しい。ある年、国秋さんは会社の社員旅行で雲南に行くことになった。同僚たちは、旅行先の料理が口に合わないことを心配し、みんなおかずを持っていくと言った。李さんは、「同僚がみんなおかずを持っているのに、国秋だけ持っておらず、人が食べているのをみるのは良くない」と思って、魚の塩漬けを作って持たせようとした。しかし、国秋さんは李さんの体を心配して、どうしても作らせなかった。

二人は本当のおじいちゃんと孫のように孤児院で暮らしている。国秋さんは「おじいちゃん」とベランダで写真を撮ったことがある。李さんは満面の笑顔で椅子に座っており、国秋さんは頬杖をついておじいちゃんの横でしゃがんでいる。写真におじいちゃんが新しく植えたコウシンバラも映っている。李さんはこの写真をガラス張りの机の下に飾っている。彼にとって、もっとも大事なものはすべてこの一枚の写真に収まっている。

一方、国秋さんは写真を全てアルバムに大事に収蔵している。その中に、孤児院時代のたくさんの思い出があるからだ。ある時、住んでいたアパートが修復されることになった折は、雑多な物の中から姉妹たちの子供時代の写真がたくさん出てきた。彼女はこの色褪せた古い写真を全部拾ってきて、一枚一枚アルバムに差し込んだ。

いま、写真に映っている子たちが揃うのは、毎年の正月九日しかない。この日、一緒に育った姉妹たちは孤児院に集まる。国秋さんは古巣で、夫や子供を連れてくる皆を待っている。彼女はいまだ結婚していない数少ない女の子たちの中の一人。でも大勢の中にいても、もう孤独を感じない。

遡ること20年。あの時は、孤児院が設立されて間もなく、一緒に育った女の子は10人いた。文学に通じる庭師の李さんはこの10人の女の子に詩のような美しい名前を付けてくれた。10人の名前の二つ目の文字をつなげると、漢詩の「春花満月紅、秋果累枝黄」となる。李さんと国秋さんとの縁は、この「秋」から始まった。

この女の子たちは自分だけの名前を持ち、それぞれ自分の人生を歩み始めた。20年後、中には人に引き取られ海外にいった子や、遠いところに嫁いだ子もいる。地元に残った子も自分たちのことで忙しく、全員が集まってこの漢詩を再現するのは、もう簡単ではない。

執筆者 南都基金会(出典元:中国青年報)
執筆者所属  
翻訳と校正 翻訳:川口晶子、王麗 校正:棚田由紀子
メディア

http://www.cdb.org.cn/newsview.php?id=6614

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