2009/12/03 by GLI Japan

【沈東曙】北京富平学校(前編)

(なお、関連記事として 北京富平学校-社会的企業の試み もご覧ください)

富平(Fu Ping)学校は、中国語の「扶貧(救貧)」(Fu Pin)と発音が似ていることで命名された。茅于軾、呉敬璉、湯敏ほか著名な経済学者が救貧領域で実験的に開拓した事業であったが、その実験を実り豊かな事業に育てたのは、この文章の主人公、沈東曙である。

1991年に北京大学東方学部卒業後、沈東曙は国有企業でさまざまなマネジメントと投資の仕事を経験した。その後自分で起業して会社を設立し、成 功した企業家となった。新世紀に入ってから、彼はある記事との出会いから公益投資の分野に身を投じるようになり、富平事業の地道な前進を推進した。

北京のやや古びた団地の一番奥に、白い二階建てのビルがあり、富平学校の事務室はそこにあった。沈さんは彼らの会議室で我々のインタビューを受け た。なぜこの仕事を始めたのかという質問に対して、彼はいつもどおりのユーモラスで素朴なレトリックで語り出した。「当時、僕は会社をやってまたそれを 売って、2001年の3月にほぼ終わったのかな。それで次に何をしようかと思慮していたわけ。三つの方向があった。一つはメディアへの投資、二つ目は起業 への投資、三つ目は公益事業だった。起業への投資は僕が最も慣れている仕事だし興味もあった。多くの夢がある、能力がある人にチャンスをもたらす仕事だか ら。でもその分やっている人も多いので、僕ならではの特別なアイデアははっきりしなかった。それで三つ目に注目した。公益組織、これは分からん。分からん から、その辺をぶらぶらして、みんなが何をやってるのか見てみた。」沈が「慧灵」という知的障害者にサービスを提供する公益組織で「ぶらぶら」していた時 期、ある日彼はカフェで偶然ある記事を目にした。それは茅于軾先生らが農村の救貧のために設立した家政学校が、学生集めに苦労しているという記事だった。 「僕は突然ひらめいた。というのも、当時僕もちょうどそんな感じの組織を創ろうとしていたが、大事なのは“ボス”を探すことだった。僕には投資の経験があ り、起業の経験もある。だから一つの組織にとってマネジメントが如何に重要か知っていた。茅先生は僕の想定する“ボス”の条件にはあまりにもぴったりだっ たんだ。正直で知恵があって洞察力に富んでいるだけでなく、小さいことをいとわない。」学生時代から茅先生を尊敬していた沈さんは、すぐさま茅先生の住所 と電話番号を手に入れ、茅先生および彼の親切な奥方と電話で一時間以上語り合ったのち、家政学校の校舎を見に行った。その時から、富平学校に頭脳明晰で実 務経験豊かな、しかも新しい事業に挑む大きな情熱を秘めた若き株主が加わった。当時沈東曙は32歳、富平学校の株を19%を所有するようになった。

沈東曙さんが最初に行った三つのこと

茅先生の当初の救貧計画には二つのプロジェクトがあった。一つはマイクロクレジット、これは1993年から茅先生が山西省で始めていた。もう一つ は家政学校。しかし、生徒募集がうまく行かず、「投資した登録資金の30万元を超え、47万元もつぎ込んでいた」。沈東曙はこのような状況下において家政 学校の管理に乗り出した。道を打開するために、彼はまず三つのことを行った。「一つは、受講生の就職保証と一体化したサービスを提供するというプロジェク トの方向付け、二つ目は政府と協力し合うこと、民営でありながら政府の支持を求める。三つ目は、組織のマネジメントの問題」であった。

まず、家政サービス会社を設立した。「経済学者は特に社会的役 割分担という概念を信じているので、学校が育てた人材を既存の家政婦紹介会社に就職させればいいと考える。僕はたまたまこのことを研究したことがあって、 当時の家政婦派遣会社のレベルとしてはまだまだ就業保証の段階に至っていないことが分かっていた。だから自分たちで家政サービス会社をつくって就業と連動 する新しいモデルを考えるしかない。確固たる信念と基本的な資源の両方に基づいて、家政サービス従事者の権益を保障し営業利益を生む創造的な方法を見つけ なければならない。運営モデルの問題を解決するには、学校だけではなく、就業に至るまでの連鎖をすべて解決してはじめて現実的な解決策となる。」

次に、貧困地域の政府扶貧弁(政府による救貧行政の担当部署)と協力して生徒を募集することにした。「経済学者たちはマーケットをより信頼してい て、政府が首を突っ込むことを好まなかった。しかし僕は、(救貧は)政府の責任でもあるし、目標が政府と一致しているならば、政府の支持が得られるかどう かやってみるべきだと思った。農村地域では、政府系統の助けがなければ生徒募集がきわめて困難だから。政府による補助ももらうべき。学校への補助ではな く、生徒の学費と旅費の補助が必要だった。」「僕は茅先生と安徽省の扶貧弁に行ってきた。彼らの全面的な支持を取り付け、協定も結んだ。彼らは生徒一人に つき800元の補助を出してくれることになった。500元は旅費と各種証明書類作成の費用、300元は学費の補助。」こうして2002年11月の時点では すでに500名の希望者が集まり、2003年3月になると、希望者は1000人を突破し、徐々に毎年2000人を卒業・就業させるという現在の富平学校の 規模を形成していった。その後富平学校は主に安徽省、甘粛省などの扶貧弁と婦女連合会、労働局などの行政機関と協力して、生徒募集を行っている。

三つ目に沈さんが行ったのは、富平の組織構造を整理したことである。「富平は民弁非企業単位に登録しているので、株主さんがいる。当時は、いくら 出資してもらうかは出資者に任せていたし、利益が出た場合は分配するかどうかの話も明確にしなかった。僕は非営利組織である性格を明確にしようと提案し た。同時に株所有の割合を、茅先生が26%、湯敏が25%、私が19%とした。そうすることで茅先生と湯先生が社会に対して、本当に彼らがこの組織の責任 者であることをメッセージとして発信することができ、同時に我々三人が一致すれば、組織の基本的な定款をずっと維持することができ、定款に従って理事会を 組織し、より多くの志ある人を創業に誘うこともできるようになる。茅先生の理想は、金儲けもできてしかも実際に問題を解決すること、だから多くの人は、こ の家政学校は儲かるんじゃないかと誤解していた。その後さらに株主の構成を1,2回変えて、やっとみんなが、我々のところでは利益分配がないことを理解し てくれた。」

以上の3つの行動を経て、富平家政学校の入学希望者が確保され、生徒の就職においても自主性が確保され、しかも「利益分配をしない」という組織の非営利的性質が明確にされた。

家政学校の「経営」はスタートに過ぎず

家政学校が1000名の希望者を確保できるようになった2002年末、学校は「取り壊しと移転」の通知を受けた。一ヶ月以内に引っ越さなければな らない。沈さんと同僚の邢文毅さん、潘勇さんはさんざん苦労し、やっとのことで新入生が到着する5日前に新校舎を見つけ、教員も職員も配置に着いた。こう して家政学校がようやく軌道を乗り始めた2003年、SARSが発生した。「当時私たちはあれこれおよそ120万元ほど借金してこの学校を維持した。企業 の社会的責任という言葉は知らなかったが、人を雇ったばかりなのに首にするのは良くないし、生徒さんも帰すわけにはいかなかったので、踏ん張った。生徒さ んはみな雇い主に辞めさせられていたので、住宅地の中で共同生活をして、トレーニングをして過ごすしかなかった。住宅地の居民委員会に追い出されて、また ほかの借家を探すこともよくあった。熱を出す人がいれば病院に連れて行かなければならない。熱の原因を診断してもらうのに一人につき200元かかる。毎日 そんなことに追われていた。」沈さんは当時をこのように振り返った。富平学校副校長・邢文毅さんの言葉を借りれば、「私たちはここ7,8年間落ち着いたこ とはない。毎年必ずなにか予想外の、とてもつらいことが起きる。」それでも学校を維持できたのは、沈さんの確固たる「企業家」「創業」といった理念による 部分が大きい。富平学校が普通の草の根NGOともっとも異なるのは、「我々は最初から募金など人からお金をもらうようなことをしていない。経営をしてき た。当時僕は、多くのNGOの人の言葉を自分は理解できないと感じていた。実践をやる人やドナーでもそうだ。彼らも僕の言うことを理解できずにいたらし い。それなら一番いい方法は、彼らからお金をもらうことを諦め、それぞれが自分のやりたいことをやること。それで当時、自分たちでカネを出し合ってやるこ とにした。」自分の資金を出して、自分たちで維持するように努力し、自分たちでリスクを背負い、責任を取る。沈東曙さんは富平学校に来た時、企業家の視点 から20年間の事業設計を行った。SARSだろうとなんだろうと、事業を投げ捨てる言いわけにはならない。予想外の出来事が起きるリスクは、創業者には常 に伴うものだから。

家政学校が受けた最初の外からの「支援」はフォード基金会と世界銀行からで、各5000ドルだった。学校の経費のためではなく、このような救貧事 業のモデルを宣伝し、普及させるための資金だった。著名人で構成された富平の「ぴかいち」理事会も、最初の数年間は、富平のために日常経費を調達すること は一切しなかった。「はじめは、人々は茅先生ら著名人が名を連ねる理事会の構成に注目し、具体的に何をやっているのかに無関心かもしれない。でも、いずれ 人々は理事会など忘れて、我々が何をやっているのかを見るようになる。私たちの理事会にはそれぐらいの度量はある。」沈東曙さんの着眼点は、理事会の知名 度に頼って資源をもらうことにあるのではない。「最初から長期的な発展のためによきマネジメントの基礎を創り上げる。そうすればスタッフははっきりと未来 を見据え、少しずつ進めていく自信ができる。」

家政学校が最初に行った重要なことは、家政労働従事者の給与待遇レベルを挙げ、保険の問題にも着手することだった。邢文毅さんの紹介によれば「私 たちは積極的な影響を及ぼしたと思う。たとえば2002年、私たちは家政婦の最低賃金を決めた。450元、彼女たちが手にする給料。これは当時としてはか なり先を行くもので、比較的いい給料だと言える。当時はみんな300元からだったので。もちろん就業の面でプレッシャーはあった。お客さんは別の安い会社 を選ぶかもしれない。でも、これも1つのアドボカシーで、今私たちの賃金基準は1000元からとなっている。労働者自身にとっては比較的にいい報酬だ。そ れから当時私たちは、一ヶ月に3日間の休暇を雇用主に要求した。休暇を与えないならば、その分の手当を支払わなければならないと。当時はほかにはなかった 規定だが、今は週一の休日は家政業界で規定されている。私たちの取り組みは、この業界の労働者の権益を守る上で意味があったと思う。」ほかにも、富平学校 はすべての家政従業員に人身事故傷害保険と人身事故傷害補充医療保険を付保しており、補償額は1万元となっている。仕事中に起こりうる損害に対して、富平 家政サービス会社は「家政責任保険」を付保し、補償額は30万元。これによって、家政婦さんたちは安心して働くことができるようになった。

家政学校では毎年2000人が訓練を受けて卒業している。いままでにすでに2万名の家政業従事者を就業させている。就業斡旋を担当する会社も3つに増え た。しかし、貧困を減らすために経営する富平の事業として、家政学校と会社はスタートに過ぎない。2004年、茅先生が長年一人でやってきたマイクロ・ク レジット事業が、富平のメイン事業の1つになり、マイクロ・クレジットと家政学校などの社会的企業を経営するという富平の事業の柱が明確になった。今は北 京と甘粛省に富平のマイクロ・クレジットの拠点があり、2009年には山西省永済市で正式に富平マイクロ・クレジット会社を登録した。このメイン事業の目 的は「農民と農民工に直接就業と創業の機会を与え、彼らを中心に彼らの周りの人の貧困脱出を助けること」だという。

2006年、富平学校は「環境と発展研究所」との合併を実現し、基金会の設立を計画した。目的は、「当初家政学校を設立した私たちと同じような、社会的企 業を起業する人を探し出し、ソーシャル・イノベーションに貢献するいいアイデアを支援し、彼らの事業に投資するため」であった。富平のような社会的企業に 投資し、社会企業家を育てること、これはまさに沈東曙さんが企画した第二の「富平のメイン事業」であった。しかし、基金会の登録基金として1200万元を 調達できた時点で、登録が困難であることが判明した。出資者と議論を重ねて同意を取り付け、2008年にこの資金を用いて、富平はレノボと国内初の社会的 投資会社を設立し、「社会起業家と社会的企業に投資する」という新たなメイン事業を始めた。

「まず自分のことをきちんとやって、そのあと人のことを考える。」富平には家政学校と家政サービス会社の経験があり、マイクロ・クレジットの経験と成果があって、はじめて今日の「社会起業家と社会的企業に投資する」という新境地に到達できた。

後編に続く

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