2013/01/07 by Tanada

不平の合唱団

歩行者の流れが絶えない広州市北京路で、30人の若者が人ごみの中で素早く三列に並び、各人が歌詞を持ち、指揮に従い大声で「どうして、どうして、排気が街にいっぱい?PM基準の意味がない。ラッシュの地下鉄はすごく込み、私の歩くスピードがバスより早い」と歌い始めた。歌詞の内容は旅行、就職、高速鉄道の事故から食品安全、強制撤去、農民工まで及び、若者たちはこれら公に知られた話題について、考え違いをしていない。周囲の通行人が徐々に引き込まれて集まり、多くの人が携帯電話を出し、撮影していた。更に幾人かの市民は歌詞を求めて、合唱団の列に加わった。

投诉合唱团01すぐに、広州から全国の大手メディアに至るまで、北京路、越秀公園、広州タワーなど主な地点でのプレゼンテーションの盛況ぶりを次から次と報道した。これが創立したばかりの「黒橙(ブラックオレンジ)創意公社」の初の正式な公開活動だった。

 芸術的な方法による優雅な反抗

黒橙創意公社は2011年11月12日に創立された。その日、陳偉祥と数人の同志は、広州の幾つかの主な商業地域で、特別な芸術的パフォーマンスアートを演じた。十人ほどの若者たちが同じ大きなサングラスをかけ、同一時間に幾つかの違った一角から迅速に集合して隊列を組み、通行人に激しいヒップホップダンスを演じ、周りの人の喝さいを浴びた。引き続き、一行は縦一列に並び、後ろの人が前の人の方を支え、「長蛇」の列で、通行人の中へ入ったり出たりした。時々、彼らはお客が多い店を選んで入り、一周した。また時々、彼らに興味を持ち撮影している人の周りを数回回った。彼らは歩きながら自分が書いたスローガンを叫び、自分たちの社会問題に対する一意見を叫んだ。動画は直ちにインターネットにアップロードされ、ネットワークの世界で非常に大きな注目を得た。

初めての成功で、もともと公益事業に熱心な数人の若者は即座に自信を持った。数人の友人がたちまち同調し、自分たちの組織を作って定期的に芸術活動を行い、穏やかな芸術形式で社会問題に応えること、そして、大衆が社会問題にもっと注目するようアピールし、公民としての自覚を呼び起こすことを決定した。彼らは組織を「黒橙創意公社」と命名した。

芸術と言えば、彼らは皆専門家ではなく、陳は中山医薬大学2年で、皆は陳を「小祥子」と呼んでいた。その他の数人の仲間も医薬学院や外国語・対外貿易学校の大学生だ。自身が音楽と芸術が好きで、また一般の人にも受け入れられやすいので、このような表現形式を選んだ。広州本土の公益分野でコミュニティ音楽に熱心な「小燕子」と言う人が、自ら進んで申し出、黒橙の顧問を担当している。彼はずっと以前から国際社会にある公益のイベント形式を黒橙の仲間たち、つまり「不平の合唱団」に紹介した。

都市の「不平の合唱団」は2005年にフィンランドに発し、訴えの中心は「比較的穏やかな歌唱方式で、心の中の都市生活に対する不満、穏やかに各々の内心のあせりを歌う」。我が国においては、かつて香港に出現したことがあるだけで、それも2010年末に解散した。

「不平の合唱団」を成立するには、まず新しいメンバーを募集しなければならない。小祥子と友人たちは、ミニブログとソーシャルネットワークを通じてネットシチズンに、公社の情報を公表し、なお広州の各大学に募集広告を貼った。

「…私たちは中国がそんなに幸福ではないことが、だんだんと分かってきた。私たちは化学者がブレンドした食品を食べ、各種の金属イオンが含まれた水を飲み、PM2.5(訳注:直径が2.5マイクロメートル以下の超微粒子。微小粒子状物質ともいう)が300を超える富栄養の空気を吸っている。卒業後、私たちは、指導者が気に留めない都市の一隅に住み、昔のDOTA(訳注:コンピューターゲームの一種)で遊んだ友達と一緒に不動産屋のチラシを見て、その価格にがたがた震えてしまうかもしれない」という募集広告の内容について、小祥子は十分に満足に思った。このような広告の内容は、多くの80后や90后世代の心の中のやるせなさを表し、大きな共感を呼んだ。そのため「不平の合唱団」に参加を希望する若者はますます増えた。

人気が十分に出てくれば、次は音楽の問題を解決することだ。合唱団は公衆の面前で披露する歌を作らなければいけない。歌いやすい歌詞と覚えやすいメロディが必要だ。「小燕子」は時を移さず「香港不平の合唱団」の友人たちを招いた。黒橙と比べると、香港は多方面に熟練度が高く、これらの先輩たちは歌の内容、経営、管理などの面で黒橙創意公社に多くの貴重な助言を与えた。更に良いことに、黒橙が彼らの幾つかの曲のメロディをそのまま使うことに同意した。こうして、小祥子たちは自分で歌詞を書きだした。

“潜入”体験を歌にする

 大学に入学して間もなく、小祥子はたった一人で“フォックスコン”に潜入した。ちょうどフォックスコンの工員の飛び降り自殺が相次いでいたころで、彼らの絶望を自ら体験してみよう思い立ったのだ。国慶節の期間中、彼は専門学校生という身分でフォックスコンの子会社に採用されたが、採用の過程では何の資格審査もなく、身分証明書を持っていれば事足りた。唯一必要とされたのは、四肢を自在に動かせて、“教官”の管理に従うこと。工場に行くと、フォックスコンと3年の契約を結ぶよう言われた。契約書には「本業務には危険な内容も存在する可能性がある」という記載があり、労働者は全員が「職業によるものではない疾病」の欄にチェックを入れるよう要求された。

 そこでの数日の短い滞在の間に、小祥子は工員たちの単調な生活を体験した。毎日12時間勤務のあと、ネットカフェで1~2時間ネットを見て、宿舎に戻って休む。バスケットコートや図書館を利用する人はいない。(仕事中は)毎時間4~5人が怒られており、流れ作業を監督する組長や科長は、いつも思いがけない理由を見つけて怒鳴りつけてくる。

 「ある日、一人で静かにしていた時、ここで受けた屈辱が心に湧きあがってきて、他のことが考えられなくなってしまった。とにかくここから逃れたいと思った。あの時は、まるで飛び降りた工員たちの姿が見えたように感じた」。小祥子はのちに彼が発表した文章の中でこう語っている。「そこで、もう一度自分が10月8日にどのように離れたのかを思い出してみた。朝7時に退勤し、工場を出て宿舎まで一目散に走った。いつもは30分かかる道を10分で帰った。一刻も早くこの場を離れたかったからね。もう耐えられなくなっていた。魂のない機械のようにフォックスコンの周囲だけを行ったり来たりする生活を、もう耐え忍ぶことはできなかった」

 「世界の工場の給料は最低で、ひどい親方が労働災害を無視するし、給料の支給は理由もなく引き延ばされる。いずれにしても農民工は支援もないから、飛び降りるほかないだろう?」 この時の経験は、小祥子が歌詞を書く時のインスピレーションの源泉、また社会問題に注目するモチベーションの源のひとつになった。

“不平の合唱団”から“アピール合唱団”へ

ついに“不平の合唱団”の第一回公演の時がやってきた。過去の経験に照らせば、街頭でのパフォーマンスには多くの不確定要素があった。今はやりの“フラッシュ”式ならリスクを減らせると小祥子は思った。メンバーは指定の時間に決められた場所に素早く集まり、パフォーマンスを行ったあとは迅速に解散するというものだ。「ただ、パフォーマンスが思いのほか多くの観衆を引き付けたため、どうにも素早く解散することができず、事前にきっちり分担していた“逃亡計画”も実行できなかった」

 クリスマスの日、ブラックオレンジのメンバーは、広州タワー・烈士陵園・広東省人民医院・北京路・中山記念堂・越秀公園などの、人が多くランドマークになっている場所に向かって行進していた。一曲歌い終わると、必ず手を振り上げて高らかに「愛してるよ、広州!」と叫ぶ。しかし行進途中に出会う光景もさまざまだった。「もともと北京路や人民医院などでは歌わせてもらえないだろうと思っていたが、予想に反して順調にいった。多くの人が集まったので、4~5人の警備員が秩序維持にあたり、自発的にスリに眼を光らせてくれた。観衆は我々の歌のテーマについても議論してくれて、とても嬉しかった。だが、より開放されているはずの越秀公園で思いがけず阻止され、警備員の態度も劣悪で歌わせてもらえず、写真も駄目だった。30分交渉したが、警察を呼んで身分を明らかにし、やっと記念写真を取ることを許してもらえた」

 “不平の合唱団”が瞬く間に人気を得ると、広州にはさまざまな波紋が広がった。『南方都市報』は「不平の合唱団は社会問題を解決できるか」というアンケートを行い、参加した読者の70%が“できる”と答えたが、少なからぬ読者は彼らの行為はその場限りのパフォーマンスだと疑問を呈した。実際、この問題に関し、公社のメンバー自身は「できないかもしれない」と回答している。

 小祥子は言う。歌は考えを伝えることができ、若者の声を人々に届けることができる。ブラックオレンジ創意公社の仲間たちにとって、最初の目的はただ、より多くの人に社会問題に関心を持ってもらうことであり、特定の問題に的を絞ったものではなく、行動する精神を提唱するだけだった。人々の公民意識を目覚めさせ、より多くの人が社会の運営に積極的になり、社会に関心を持つ態度を形成することを後押ししたいと希望したのだ。

 “不平の合唱団”の公演も徐々に邪魔だてされるようになった。時には、小祥子と友達たちは学校関係者の訪問を受けたり、後をつけられたりする。彼らは“不平の合唱団”から“アピール合唱団”に名前を変え、ソフトな特色をより打ち出そうとしている。それはNGO活動に従事する上での戦略で、できる限りソフトなやり方でこの事業を守るべきだと彼らは考えている。

 今、ブラックオレンジ創意公社はこんなふうに事業を展開している。メンバーは毎回の活動で各自一部の任務を担当する。メディアPRを担当する者もいれば、ネットのメインテナンス担当や、現場の指揮を任されるものもいる。メンバーはできるだけ毎回違った役割を担当することで、より多くの経験を得ている。

 「アートの才能はなくてもいいけど、夢がないのは駄目」―ブラックオレンジ創意公社の人材募集ページにはこのスローガンが大きく掲げられている。

執筆者 取材:欧陽潔、王発財 文:沈君菡
執筆者所属
翻訳と校正 翻訳:岡田由一、松江直子 校正:棚田由紀子
メディア 出典:社会創業家 2012年6月http://www.npi.org.cn/uploads/magazines/npo/2_1006_194524.pdf転載に当たって、短く編集しています。

編集: 李君暉

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