2012/08/31 by Tanada

盧思騁:中国の環境保護団体は如何に国際活動に参加してきたか(上)

中国の民間環境保護実践者の中で、20年以上の職歴がある人は多くないが、盧思騁はそのうちの一人である。では彼は実践者の中で最高齢かと言うと、そうではない。

1992年、19歳の盧思騁は香港中文大学の二年生だった。彼はマレーシアで行われた「グローバル化というテーマにおける経済発展と環境的公正」についての会議に参加した。主な参加者はアジアの青年と学生であり、その年の6月にブラジルのリオデジャネイロで開催予定の国連環境開発会議の準備会議という位置づけだった。

この機会を利用して、盧思騁は事前にマレーシアのサラワク州にある熱帯雨林を訪れた。日本の多国籍企業がここの木を伐採して割り箸を作っており、当時すでにひどく伐採されていたと彼は言う。「我々はボランティアとして森に入り、原住民が道にバリケードを設置するのを手伝い、伐採会社が森に入って彼らの故郷の山を伐採するのを阻止しました」

盧思騁は、会議に参加した時点では将来自分が環境NGO活動をするということは全く考えておらず、当時最も注目していたのは社会的公正の問題だった。しかし、1999年に彼は国際環境保護団体・グリーンピースの香港事務所に参加し、それ以降はずっと環境保護団体で仕事をしている。彼は言う。「今思い返せば、1992年に熱帯雨林で過ごしたあの10日間あまりが私を大きく変えたのです」

2002年、盧思騁は中国本土でグリーンピースの事務所を開設し、そこで2009年まで働いた。2010年にはSEE基金会で秘書長となり、後に前進工作室及び創緑センターという二つの公益団体を設立した。前者は公益団体としてキャパシティ・ビルディング研修と戦略計画立案を行い、後者は水質汚染や気候変動といった環境問題の解決に取り組む団体だ。

2003年、気候変動問題はまだ世の耳目を引いていなかったが、思盧騁はグリーンピース中国事務所を挙げてこの問題に注目し始めていた。グリーンピースに2004年に加入した喩捷は本号記載の『天命を知り、人事を尽くす』と題した文章の中で、次のように語っている。2004年に国連の気候変動枠組条約第10回締約国会議(COP10)に参加した時、「中国のNGOから参加したのは、私と同僚の陳紅娟の二人だけでした」

今日では、以前とは違い、中国本土の多くの環境保護団体が気候変動問題に注目し始めたが、それは基本的に2007年以降のことだ。

2010年、中国は初めて国連に気候変動に関する折衝会議を主催することを申請し、会議は天津で行われた。当時、思盧騁は中国NGOによる「グリーンチャイナ、未来へダッシュ」キャンペーンの総コーディネーターとして、60あまりの環境NGOの参加を取り仕切った。

中国に環境保護団体がなかった時から学生として国際的な環境保護活動に参加しはじめ、のちには国際環境保護団体の中国事務所員として長期的に働いた盧思騁は、国際的な環境保護活動の実務や中国本土団体の国際的活動への参与について深い関わりと心得を持っている。本号の『青年環境評論』では、この二つの話題について、彼を取材した。

 

1992年の会議が新しいグローバル化時代の国際協力の扉を開いた

霍偉亜(以下、霍と略す):国連環境発展会議が20年前にリオデジャネイロで行われたが、その歴史的背景はどのようなものだったのか。

盧思騁(以下、盧と略す):非常に特殊なものだった。1989年、多くの社会主義国家で政治制度が変わり、かつてソ連グループに属していたいくつかの社会主義国家の政府が全て倒された。西側先進国には、ある種の勝利感があり、数十年来の冷戦の相手をついに打ち負かし、自分たちの制度の正しさが証明されたと思っていただろう。

また、第二次大戦後、多くの国が民族の独立を勝ち取ったが、そこは社会主義と資本主義という二つの陣営による冷戦の戦場と化してしまった。これらの発展途上国を味方に付け、こうした新しいが経済レベルの低い国家で自分たちの政治・経済の制度を実現したい、と二つの陣営ともが希望したのだ。

東欧の崩壊と冷戦の終結に伴い、第三世界で行われていた冷戦も瞬く間に収束した。中国・インド・ブラジルなどの大きな発展途上国は当時まだ発展しておらず、工業化のレベルも低かった。90年代初め、自家用車の数は、北京に数百台、上海ですら1000台に満たなかった。振り返れば、いくつもの山を越えて今の中国になったと実感している。

 

霍:この時の会議ではどのようなアウトプットがあったか。

盧:リオ宣言の他に、≪気候変動に関する枠組条約≫、≪生物多様性の保全に関する条約≫、≪砂漠化対処条約≫の三条約など一連の多国間条約があり、森林原則声明(訳注:世界中の森林に関する問題について、各国が協力して国際的に解決していくことを目標にした世界で初めての世界的合意)もこの時に採択された。

これら以外にも、当時採択された「持続可能な開発」の中に国際貿易や国際援助に関する内容があり、国際金融機関に対する改革や女性の権益を如何に保障するかといった内容も提起された。

1992年の国連環境開発会議全体が、新しいグローバル化時代の国際協力という扉を開いたのだ。1994年に北京で開催された世界婦人会議、90年代に行われたすべてのWTO(世界貿易機関)交渉、GATT(関税および貿易に関する一般協定)からWTOに至る、のちに国連が提起するミレニアム開発目標も含め、その多くの具体的目標は、実際は1992年の宣言文から引き出されたものだった。

リオ大会には大きな枠組みと小さな枠組みがある。小さな枠組みとは、1992年のリオで直接生み出されたもので、リオ宣言といくつかの多国間環境条約だ。しかし、より大きなリオの成果は、すべての国際的メカニズムや枠組みに対し反省と改革を提起した点にある。それは環境問題にとどまらず、貿易、性別、多国間援助、国際金融機構改革、更には国連の統治システムそのものの改革も含まれる。

リオ宣言は、決して小さな環境保護だけを言っているのではなく、大きな環境保護の概念だ。それには社会・経済・環境の三つの柱があり、その三つは相互に密接に関わり、不可分であるということだ。しかし、中国の環境保護団体は長い間環境問題を環境の面だけで論じ、より大きな社会経済の発展という背景の元に理解しようとはしてこなかった。

 

霍:会議終了後、「持続可能な開発」の理念は瞬く間に世界に受け入れられたが、これはどのような内容を含んでいるのか。

盧:「持続可能な開発」にはいくつかの非常に重要な内容がある。

まず、その根本理念は、ひとつの社会、ひとつの地域、もしくは地球自体をひとつの総体とみなすこと。もし持続可能な開発の道を進みたいならば、三つの柱が必要となる。それは、経済発展・社会的公正・環境の持続可能性であり、この三者は不可分だ。

持続可能な開発とは一軒の家だと考えてもいい。この家は三本の柱に支えられている。柱の一本が倒れたり、柱の長さがそれぞれ違ったりすれば、この家は安定しない。当時、リオでのすべての枠組みはこの三つの基礎に支えられていた。

次に、産業革命以降の150年あまり、植民地時代の天然資源に対する略奪も含め、西側諸国の一人当たりの資源消費量は発展途上国とは比べ物にならない程多かった。だから、先進国はその消費を減らし、地球の限りある資源に対する占有を減少させ、より多くの空間を発展途上国の人に明け渡し、彼らが発展の権利を得ることができるようにする必要がある。

「持続可能な開発」には他にもいくつかの重要な概念がある。その一つは「共同だが差異のある責任」だ。これは1992年に提起され、一人当たりの排出量問題、歴史責任問題、「世代間の公平」といった問題を含み、初めて非常に明確に「市民社会」「市民参加」「情報公開」が持続可能な開発を保障する重要な条件であると指摘している。

 

霍:なぜ当時、こんなにも多くの国が、このように多くの共通認識を達成できたのか。

盧:当時、西側には自分たちのやり方は正しいのだという自信があった。米国は「new world order」(新しい世界秩序)という概念すら打ち出していた。東欧の崩壊により、ソ連を含む多くの伝統的な東欧国家が、国際問題における発言権を失っていた。中国も政治的混乱が収まった直後で、ブラジルも民主化されたばかり、インドは当時、経済的にまだ全く発展していなかったため、今より更に貧しく、遅れていた。

こうした局面において、先進国は小さな譲歩をする余裕があり、発展途上国はまだ何も分からないながらも、環境と発展という枠組みから、より多くの北側諸国の資金や技術を引き出したいと願っていた。

当時、多くの発展途上国にはそんなにひどい汚染問題はなかったし、天然資源の採取は主に輸出するためだった。たとえば鉱産物や木材は、先進国での消費に供されるために輸出されていたのだ。

そして、1988年に締結されたばかりの≪オゾン層を破壊する物質に関するモントリオール議定書≫があった。この議定書は今でも比較的成功した国際高等条約と言える。1992年の交渉では、1988年の協力成功例を基礎として、今述べた冷戦の終了と新時代の到来、先進国の自信、発展途上国の発展への希求といった背景が加わったのだ。

つまり、全体としてみれば、1992年に「持続可能な開発」という共通認識が達成されたのだ。

 

霍:当時の環境保護団体は「持続可能な開発」をどうとらえていたのか。

盧:一部の団体は、この概念は成熟したものではなく、容易に伝統的な「経済発展至上論」に取って変わられる恐れがあり、「持続可能」はただの形容詞で、主語はやはり「開発」であると批判していた。先進国側の譲歩が足りないという批判も多かった。

一部の発展途上国が思い描く「発展」とは実の所、西側諸国のそれと大差なく、自分たちも貴方達と同じようになりたいので、貴方は私にその場所を譲ってくれと言っているようなものだった。こうした経済拡大路線が持続不可能であるという反省の上には立っていなかったのである。

こうした内容は、当時の国家代表団の中ではほとんど話題にならなかったが、学術界とNGOの中では何度も議論されていた。「持続可能な開発」という考え方そのものに反対していた環境保護団体もいたのだ。

(続く)

 

出典元:http://blog.sina.com.cn/s/blog_70301e1601016yxm.html

初出:『青年環境評論』第三期

文:霍偉亜

 

翻訳:松江直子

校正:棚田由紀子

翻訳者および校正者の所属:日中市民社会ネットワーク

 

 

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